野球人生さいごの古希野球

 折に触れて読み返す松本清張の「半生の記」(昭和45年発行、新潮文庫版)にはこんな記録がある。「少年時代には親の溺愛から、十六歳頃からは家計の補助に、三十歳近くからは家庭と両親の世話で身動きできなかった。ー私に面白い青春があるわけではなかった。濁ったくらい半生であった」

 この文中のどこかに「矜持」について書いてあったのを記憶する。貧しかった母親タニはたった一枚上等な着物を持っていて、それが彼女の心を支えた、とそんな内容だったと思う。人は誰でも何か一つの能力、才能、歓びがあれば人生を生き抜いていけるのか。わたしはそんな風に解釈して、自分の人生を眺めてきた。

 と、まあ真面目に書き出したが、なんか最近の古希野球が「矜持」に繋がってきたと思える。まだ仕事を持っているので、就労支援施設の利用者と草刈りや剪定をこなし、夕刻には難しい書類仕事をこなす。その後に公園内をランニング、帰宅してのウェイト・トレやネットピッチングも日課。週7日、ゆっくりと過ごす時間はない。そんな毎日では月2~3回の古希野球参加(休みを取っての)が心身の解放にとって不可欠となっている。

 8月6日は懐かしい人物と投げ合った。その昔、約40年前のこと、新日本スポーツ連盟(当時は新日本体育連盟。以下新体連)の全国スポーツ祭典兵庫県予選に参加していた。県で優勝すれば、東京、千葉、豊橋などで開催される全国大会に出場できる。西脇軟式野球連盟に所属する「日野クラブ」の投手として重い責任を感じながら投げていたのだが。

 当時全盛だった松村石油研究所に2年続けて決勝で敗れた。いいチームだった。いつも接戦。マウンドで飄々と投げるM投手、彼を導くヴェテラン捕手。バッテリーの年齢を併せると80歳を超えていた。「あの歳まで野球できるわけがないよ」、われわれはあきれてそういった。しかし、その後の草野球人生のどこかで、Mさんを目標にしていたのかもしれないのだ。わたしは今年、草野球投手人生42年を迎えている。

 公式戦ではなく、交流戦の第二試合でMさんの飄々としたピッチングを見た。試合後に記念撮影。40年の歳月を経て再びの対戦、これが古希野球の素晴らしさだと思わないではいられない。ならばMさん、80歳に手が届く?

 Mさんとの投げ合いから「カットボール」を投げ始めた。ストレートと同じ投げ方で打者の手元で小さく曲がるボールは、効果を発揮している。しかも2種類。ピッチングの組み立てが楽になった。打たれない。それからは投げるのが楽しくて楽しくて。打者を抑える楽しさがあるから、ランニングも苦にならない。スポーツの楽しさは技術の成長とともにに向上するらしい。

 8月27日の試合は欠席者が目だった。1番打者は新しい仕事の為に。投打の要は老老介護、捕手のTさんは自営業が忙しい、などなど。70歳を超えると野球場に来るまでに様々な壁がある。わたしもいつそうなるかわからない。42年投げてきたが、残された野球人生はながくない。今の三田プリンス古希野球チームは、まちがいなくわたしの野球人生最後の場所となる。

 皆と仲よく楽しみたい。地位も名誉も世俗の欲も、もちろん必要以上の贅沢も、マウンド生活に比べると色あせて見える。3人のいい子ども、これまた3人の孫(現在は)、すばらしい女房と数人の懐かしい教え子以外にたいした人生を持たなかったわたしにとって、野球は「矜持」にちがいない。これがあるから生きられる。野球に出会った幸せを、あとしばらくは噛みしめたいものだ。

 

 

 

シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

輝くシニア発掘~中高年に励ましを~

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