2024年は能登半島地震から
1月1日の16:10分頃だった。岐阜と名古屋の中間あたりで緊急地震速報が入った。能登半島地震だった。2時間前までいた高山で震度5弱、加賀市の友人に連絡を取ると「無事だが震度5強だった」という。直前観光にまわった白川郷では白川インター以北は通行止め。震源地に近い場に居ただけで一層の悲劇性が感じられた。
帰宅後は本年度脱稿予定の「ベースボールと野球を繋いだ男」(故今里 純先生の記録)の準備に追われる日々だったが、夏の北京少年野球団の訪日(西脇市へやってくる)の件で神戸市のSさんと西脇市役所、「青年の家」等を尋ねる動きもあった。もちろんわたしは「個人」の資格で協力をしている。「プレッシャーのかかる一年だぞ」と覚悟をしている日々だ。
さらにはスポーツ文化とまちづくりの探求も課題だ。昨日は京丹後市と出石を訪問した。小雨の中の丹後、但馬を巡るのどかな旅だったが、同行した(株)ヘソノオ・パブリッシングの代表・越川さんがFacebookに投稿された文章がすべてのポイントを網羅しているので拝借をして紹介させていただきたい(無断なのだが)。
★西脇の野球・スポーツ文化振興に長年尽力されている竹本武志さんの案内で西脇出身の研究者でご帰郷中の山口直樹さんと3人で、京丹後市網野町にある「野村克也ベースボール・ギャラリー」と豊岡市出石町の「出石明治館」内の「大友工投手展示室」を訪れました。
山口直樹さんは評論誌『葦牙ジャーナル』にて「野村克也監督への手紙」を寄稿され、その中で西脇の野球人・野球関係者と野村克也さんとの不思議な縁について綴っておられます。
網野の生んだ偉大な野球選手でありID野球を掲げ監督としても卓越した業績を遺した野村克也さんのギャラリーは地元の名産物も販売する「丹後地域地場産業振興センター」内にあり、数々のトロフィーや子ども時代からの写真や遺品の展示が、大切に年代順にぎっしりと並べられていました。
とりわけ、「歓迎三冠王」、野村選手が戦後初のプロ野球の三冠王に輝いた昭和38(1963)年に凱旋帰郷した際に撮られた、手づくり感あふれるパレードの模様を写した写真に、心温められました。ヒーローを迎え入れる故郷の人たちの素朴で喜色満面な顔・顔・顔…。
職員の方とも応接室で歓談させていただき、遠くからの来館者も多いことを聞き、野村克也さんの存在を末永く地域の誇りとするべく取り組まれている様子が伺えました。
一行は一路出石へ。老舗店で美味しい出石そばをいただいた後、旧出石郡役所だった明治20年築の洋館を活用した「出石明治館」へ。
こちらは出石が輩出した偉人たちを讃え、その功績を紹介する記念館で、その中に戦後に活躍した巨人の名投手大友工の展示室もあります。
また大友投手のピッチング・フォームを模った等身大のブロンズ像が地元の総合スポーツセンター野球場入り口に設置されているとのこと。
こうして、地域の・まちの、優れた先人の遺したものを財産として共有し記憶を継承してゆくための展示の場があることに、大きな感銘を受けた私でした ★
出石では玄関に「桂小五郎隠棲の地」と碑が建つ「よしむら」で皿蕎麦を食べたのだが、「3人は勤王の志士だね」と、わたしはふたりに笑いかけた。考えや立ち位置は異なっても、研究やまちづくりには共通の熱い思いを内包している。清潔な空気が流れる中で「いい人たちとのめぐり逢い」に感謝した。
いよいよ、大リーグのコミッショナーと文通し、名選手ウィリー・メイズ(元SFジャイアンツ外野手)の歯の治療も行っていた故・今里 純氏の業績に取り掛かる。今里先生といっしょに、わたしもアメリカの野球を楽しみたい。先生の人生や業績を描くことは、アメリカに憧れて現地を経験した自分の半生を表すことでもある。しかし、能力の限界も・・・やれるかな。
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