野球国際交流の町・西脇市
タイトルは市が打ちだした標語ではない。「そうあればいいのに」と願う有志の造語である。2023(令和5)の年の瀬はまさに「国際交流」の中で新年を迎える動きとなっている。
一つは出版の動き。戦後の日米交流を陰で支えた故・今里 純氏(歯科医)の野球界への貢献を評伝として記録しようとする企画が持ち上がった。西脇市で出版社(株)ヘソノオ・パブリッシングを立ちあげたK氏の企画だ。彼の登場によって英文の資料が解読され始めた。
「今里先生は米国の要人とつながっていますね」と、Kさんが言う。彼が主宰した「古本市」では英語に詳しい女性に出会った。国際結婚の彼女は西脇中の卒業生で、当時の面影を残した表情で「ソフトボール部のマネージャーだったからスコアも書けます。野球は大好きです」と協力を約してくれた。そうこうする中で今里資料の価値が明らかになりつつある。
「日米野球史」(波多野 勝・PHP新書)の一節を借りると、終戦の年、昭和20年8月下旬鈴木惣太郎は築地の読売新聞社に正力松太郎を訪ねてプロ野球復活を進言した。鈴木龍二も「アメリカは占領政策に野球を使ってくる」と確信し、正力にプロ野球復活を訴えたとある。今里 純は「プロ野球生みの親」鈴木惣太郎の「薫陶を受けた。彼はテレビの解説中たびたび今里の名前を呼んでいた」のだ。後のセ・リーグ会長、鈴木龍二とも親しかった。
当時、新橋駅近くのビルにある仙台製作所に「日本職業野球連盟」の看板がかかっていて、そこには小西得郎(戦前の大東京軍監督)がいた。鈴木惣太郎は小西得郎に面会を求めている。今里資料には、甲子園球場と思しきスタンドで小西得郎と観戦する写真がある。小西得郎の自画像を描いた色紙もある。達筆である。わたしたちの世代は彼の解説を真似たものだ。「えぇ、なんと申しましょうか」。
彼らがプロ野球復活の立役者だとしたら、今里 純は戦後の日米交流の「影の恩人」なのではないか。出版社Kさんとわたしの「たたかい」が幕を開けた。もう逃げられない。戦後の野球日米交流大舞台の幕を開けなければならない。その流れの中に野茂英雄がいて、イチローがあり、大谷翔平へと続く歴史がある。
もうひとつの国際交流は「日中の交流」だ。来夏、北京から小学生(軟式野球)、中学生(硬式野球)が50名ずつ(保護者も混じっている)×5グループ、約計250人が順次やってくる。神戸の親しい知人(先輩だが)が「ぜひ西脇でやってもらいたい」と話を持ってきた。わたしは内密に行政関係者に打診した。今の日中関係は見方によっては厳しい。「西脇市はなぜ施設を貸すのか?なぜグラウンドを提供したのか?」と抗議を受けないだろうか。
「だって子どもたちの交流じゃないですか。市内の施設を使用して、ホテルにも、青年の家にも宿泊してくれれば、市にとってもウェルカムですよ」。そう言ってくれる人もいた。「日中青少年野球交流企画~北京市野球協会~」と題された冊子には、主管:一般社団法人日中文化観光交流協会」、協力:NPO亜細亜文化藝術交流基金会」と書いてある。
先日一行3名が西脇市の各施設を訪れている。一人は北京から。宿舎や野球場をスマホで撮影し解説を入れていた。もちろん中国語で。スポーツビジネス界で働く次男によると「中国人は楽しく、いい人間が多いで。政府のイメージとはちがうわ」とのこと。具体的な動きは年明けとなるが、神戸の先輩は信頼できる人物だし、彼のいう「これが成功すれば半永久的に西脇市を舞台に日中の野球交流が続きますよ」ということになれば、日中関係の改善とともに西脇市の先駆性が脚光を浴びる?
昨日は兵庫県軟式野球連盟の理事長、元理事長たちと「モーニング忘年会」を持った。お土産もいただいて、ビールならぬコーヒーで互いの健康と、来年の「かわらぬつきあい」を確認して別れた。来年も忙しくなる。三田プリンスからは1月からの練習日程が配信され、兵庫県還暦野球連盟は来年度の全試合日程を発表した。
28日は姫路で新しいパスポートを受理する予定である。出版社Kさんの登場によって新たな刺激を受けてのパスポート申請であることは間違いがない。2024年も健康でがんばらなくっちゃ。そうだ、来シーズンの古希野球では「チェンジアップ」を必ずマスターするぞ。
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