コロナ禍で揺れ動く世界

 8月末からの動き

 8月のウィークデーに関西独立リーグに所属する三田ブルーサンダース(以下、ブルサン)がわたしたちの球場にやってきた。夢を持つ若者たちに試合の場を提供した西脇市教育委員会は偉い。ブルサンK代表の熱い思いに賛同したわたしとS議員は市のスポーツ担当職員と代表を引き合わせた。

 29日には白血病のために実践から離れていた池江璃花子選手(ルネッサンス)が1年7か月ぶりにレースに出場。そして31日にはわたしたちの球場にTBSテレビの一行がやってきて「炎の体育会」収録が行われた。福知山成美高校女子硬式野球部員と対戦するのは元阪神、メジャーリーガーの新庄氏。住民に周知しない中での撮影だったが、どこで聞きつけたのか10数人がカメラ片手に新庄、上地、高崎(ともにタレントさん)に焦点を当てていた。

 収録には神戸市に住むアナウンサーFさんをTBSに紹介した。人々をつなぐ仕事、それもNPOの仕事である。後日東京からお礼の電話があった。「TBSのSです。収録ではお世話になりました。またいつかご一緒に仕事ができたらうれしいと思います」と。

 障害者事業所の人事も刷新、ひと段落でスムーズに動き出した。その中での還暦・古希野球参加。スポーツ・イベントへの協力。忙しい日々が続く。さいごにさわやかな大坂なおみ選手の話題を。「テニス選手である前にわたしはひとりの黒人」と公言し、スポンサーを失うかもしれない中で公然と種差別反対を訴えた。

 ワシントン(米国)では現地時間28日にキング牧師たちによる「ワシントン大行進」57周年の大規模集会と行進が行われている。世界中で人種差別反対の大きなうねりが起きている中で、今朝はテニス全米オープン大坂なおみ選手優勝!のニュースが飛び込んだ。価値あるチャンピオン。「スポーツに政治を持ち込むな」という人たちはたぶん、政治の世界がスポーツを支配し分断させても無言を貫く人たちだろうと思う。

 かつて赴いたベロビーチでは、人種間の問題が微妙なバランスでうまく保たれていたのではないか。ドジャースとはそういう球団なのだ。では再び、ベロビーチ。


ドジャータウンへ

 デトロイト空港で入国審査を受けた。9.11テロ事件以後はチェックが厳しくなっているとのことで、右の指先で指紋を採られ顔写真も撮影された。故・大橋巨泉は入国のたびにそうされるのがイヤだからワシントン州の別荘を売りに出すそうだと、週刊誌が報じていたのを思い出した。

 わたしは黙っておとなしく行動し、旅行社のツアー・コンダクター(日本人一行)が掲げる団体旅行の小旗を目印に、何とか無事にオーランド行きに乗り込むことが出来た。しかし気分は落ち着かない。「もしバッグが違う場所に行ってしまったら」と、絶えず不安な気持ちが湧き上がる。英語が理解できないということは、常にこういう緊張を強いられるということなのだ。幸いにもすべてが順調にいき、飛行機は現地時間の夕刻4時30分にオーランド国際空港に無事到着した。

 佐山和夫さんが「一階のバッゲージ・カウンターでバッグを受け取り、私は周囲を見渡した」と書いていたのを思い出し、わたしも同じように周囲を見渡した。ドジャーズの関係者が迎えに来てくれる手はずになっているのだ。そこには「鮮やかなブルーの帽子に白抜きのLAのマーク」(佐山)の人はいなかったが、少しくたびれ気味のブルーの帽子をかぶったやさしそうな男性が立っていた。

 「ハーイ、Nice to meet you」自分の名前を告げて迎えの男性とガッチリ握手を交わした。2人のアメリカ人キャンパーも同乗し、ドジャーズのマークが入ったワゴン車はオーランド空港を後にした。英語が話せないわたしは、道中もっぱら景色の眺め役。それでも話しかけてくるからアメリカ人は陽気でお人よしで、だから意地悪なのだ。ミネソタ州から参加のネルソン・スコットさん(49)は音楽のプロデューサーで、「イバラギ(大阪)へ仕事で行ったことがあるよ」と親切に話しかけてくる。

 彼はわたしがドジャーズ・キャンプで最初に出会った人物だ。その縁で、彼はキャンプの期間中ずっと笑顔で接してくれたのだった。後日、彼とはゲームで劇的な対戦をすることになるのだが、もちろんこのときは知る由もない。

 ワゴン車は夕刻のハイウェイを南下しながら、約2時間の道のりを走り続けた。右に沼地、左手には牧草地がある。1940年代にドジャーズのオーナーだったブランチ・リッキーは、ファーム組織(二軍、三軍)を考案した人であり、若手を鍛えるために、ヤシと沼地ばかりの空軍の跡地にトレーニング場をつくった。先見の妙があったともいえる。それがドジャータウンの始まりだとは、「ボーイズ・オブ・サマー」からの受け売りだが、もともとはすごい田舎だったのだろうと実感できる車窓の景色だった。

     ドジャータウン到着

 5年ぶりに見るアメリカの景色はわたしの心を昂揚させた。2時間弱のドライブを終えて車がドジャータウンへ着くころは、周囲はすっかり夕闇に包まれていた。ワゴン車は「ウェルカム トゥ ドジャータウン」の看板を右折して、簡素なオフィスの前に停車した。小さな事務所では、ドジャーズのTシャツを着た年配女性の歓迎を受け、クレジットカードや、自分の健康には責任を持ちますと書いた書類にサインを済ませ、すべての手続きが終了。

 宿舎内にはたくさんの部屋があるので、歩くと大変だからと、職員がわざわざ車で部屋の前まで案内してくれた。「140号室」は自販機のすぐ近くの部屋だった。ここが一週間、わたしの夢を見守ってくれる場所になる。室内にはホテル並みの清潔なベッドが二つ並んでいる。

 アメリカにはファンを対象としたベースボール・キャンプがある。往年の大選手がインストラクターを務める夢のようなキャンプがある。佐山さんの紹介によってそのことを知ったわたしは、「いつの日かぜったいに参加してやるぞ」と心に決めた。それから9年、ついにベロビーチへやってきた。この9年間わたしの身辺は起伏に富んで変化の多い日々だった。

 西脇市の青少年センターで教育行政の立場になって、補導や不登校関係の仕事をして3年。西脇中学校の教頭を2年。そして再び体育教諭にもどって西脇東中で4年。その9年を経て、2004年の春55歳で早期リタイアをした。

 スポーツライターへの夢、ベロビーチへの憧れがなかったら、わたしは多くの職員や保護者に迷惑をかけながら、今も中学校で、先生と呼ばれる仕事に生きがいを感じていたかも知れない。だが少しでも若いときに、ホルマン・スタジアムのマウンドを踏んでみたいという欲求を、わたしは抑えることが出来なかった。こうして、小さいながらも自分の人生をかけたキャンプが、今から始まろうとしている。

  アメリカ人の集団に怖気つくことはないだろうか?硬球を使用して一週間にわたってプレーをするが、果たして体力が持続するだろうか?不安と、長旅の疲れ(15時間のフライト)をシャワーで洗い流したあと、ドライバーに教えてもらったラウンジへと歩いていった。

         ホール・オブ・フェイム

 絨毯が敷き詰められたラウンジの中央には長方形のバー・カウンターがあり、その周囲には三台のテレビと舞台、大小いくつものテーブルがある。ビリヤードの施設もあった。カウンターの中では、若い女性が三人、にぎやかな注文にテキパキ応じている。すでに全米各地からキャンパーが順次到着していて旧交を温めているようだった。

 ここでは初参加者は「ルーキー」、複数回参加のキャンパーは「ヴェテラン」と呼ばれる。日本から参加のルーキー(わたし)は、今夜到着するキャンパーのために用意された、ホテルのバイキング風料理に驚き、果物、野菜、コーヒーをチョイスしてテーブルに着いた。

 せっかくの料理だ、たとえ日本人が誰もいなくても、一応ビールくらいは注文しよう。勇気を振り絞ってカウンター内を見ると、お酒のメニューはすべてが英語。こういうときには便利な飲み物がある。わたしはカウンター内の女性に向かって、「バド・ライト プリーズ」と注文して、3ドルをカウンターの上に置いた。

すると彼女が笑いながら言ったではないか。「日本人はバド・ライトが好きねえ」(うるさい!それしか言えないのだ)。内心は穏やかではなかったが、長旅で疲れた体に冷えたビールはおいしかった。これで英語が話せたらもっとすばらしいキャンプなのにと、いまさらながら我が身の語学力不足を嘆いてしまった。

 ラウンジへ至る廊下の入り口には「Hall of Fame」(名誉の殿堂)の文字があり、左右の壁面にはドジャーズのかつての名選手たちの写真が飾られている。

 ブルックリン時代の本拠地、エベッツ・フィールドの写真では、大柄な左腕投手が投げている。1951年10月3日、ジャイアンツの本拠地ポロ・グラウンドでのプレーオフで、逆転のホームランを打たれて一躍有名になったラルフ・ブランカ投手の写真だろうか(彼の娘さんは元千葉ロッテ・マリーンズのバレンタイン監督の奥さんである)。

 黒人初の大リーガー、ジャッキー・ロビンソンがホーム・スチールをしている場面もある。勇敢な表情だ。ラウンジの右も左も、入り口も奥も幾枚もの写真で飾られている。その中でわたしはひとり、ビールを飲み、アメリカの野菜を食べていた。

 「野茂英雄もここでバド・ライトを飲んでいたのだろうか」

わたしの想像は拡がったが、それは旅の疲労と緊張で、少し酔いが回ってきたからかもしれない。

 キャンパーたちに、「お先に失礼」といおうとしたが、英語が出てこなかったので、笑顔でごまかしてラウンジを後にした。外に出ると、空には日本と同じように星が見え、当たり前のことなのにとても不思議な感じがした。

 さあ明日からいよいよキャンプが始まるぞ。期待と不安を胸に、わたしはひとりの部屋、140号室へ帰った。


シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

輝くシニア発掘~中高年に励ましを~

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