ある野球選手の訃報
8月25日の朝、練習への参加をしばし迷った。3日前から喉が痛み咳も出て、もし発熱だったら事業所も野球の練習も辞退して・・・と覚悟していたら発熱なし。少し疲労の残る体で練習をこなし、事務仕事も処理しての朝、わたしを練習に駆り立てたのは中心選手としての自覚だった。
25日は猛暑、新型コロナ禍、お盆休みを伴って久々の練習再開。「行かなくてどうする」とわたしは思ったのだ。ピッチングは球も走り予想以上の出来だったが、外野ではフライを二度落球、風邪の後遺症?脚に軽いしびれも感じ熱中症が現実的に。そのときだった、ベンチ内での会話を耳にした。その日のチームからのショートメール。
「三田プリンスの中心選手として永年活躍されてきましたSさんが8月15日に永眠されましたことを謹んでお知らせ致します。本日の練習終了後に参加者27名で黙祷を捧げ心よりご冥福をお祈りいたしました」
宝塚のチーム時代は4番打者として還暦野球の全国制覇も果たしている。「責任感の強い熱血漢だった」と彼を知る人が語る。4年前のこと、わたしが一時三田プリンスを離れる決心をしたときは遠い西脇市の我が家までやってきて翻意を促してくれた。恩に着ている。風邪気味の体を練習に引き付けたのはSさんの計らいだったと思った。野球を愛した男がまた一人この世を去った。
アメリカでは28日(日本時間29日)、映画「42 世界を変えた男」(邦題)で黒人初の大リーガー、ジャッキー・ロビンソンを演じた俳優チャドウィック・ボーズマンが43歳の若さで死去した。奇しくもその日は2020年のジャッキー・ロビンソン・デー。
では引き続きキャンプ日記を~
彼らがコーチにやってくる
わたしが参加する予定の「ドジャーズ・キャンプ」には、彼ら「夏の若者たち」がインストラクターとしてベロビーチへやってくる。ロジャー・カーンが親しみを込めて描いたブルックリン・ドジャーズ時代の名選手たちが、われわれキャンパーを教えに来てくれるのだ。
ジャッキー・ロビンソンの背番号「42」は、現在アメリカの全球団において永久欠番となっている。彼の死後に、アメリカ野球機構がその功績を認めたからだ。
「このボーイズ・オブ・サマーが出版されて半年後の1972年秋、目も見えなくなっていたジャッキー・ロビンソンは、苦しみつつ世を去りました。あれから二十五年が経った今、アメリカではクリントン大統領から新米のバットボーイに至るまで、この男のことを見直しています」(ロジャー・カーン)。
わたしにとって、ロビンソンが人種の扉をこじ開けた活躍とその時代は、書物やビデオの中の出来事だった。だがもうすぐ、彼と同時代を生きた歴史上の人物たちとベースボールを通じて交歓することが出来るのだ。
1970年から80年代のドジャーズを支えたスーパースターたちもやってくる。1997年のドジャーズは30ホーマー・カルテットを生んだ。30ホーマーのロン・セイ、33ホーマーのスティーブ・ガービー、同じく32ホーマーのレジー・スミス(読売ジャイアンツで活躍した)、30ホーマーのダスティ・ベーカー。彼らと出会えることもキャンプの大きな楽しみのひとつだ。
ロジャー・カーンはこうもいっている。「ブルックリン・ドジャーズこそが、最初に黒人選手を入れた大リーグ・チームであり、したがってもっとも良心的な球団であり、差別観念のもっとも少ないクラブだった」と。だからわたしにとってのドジャーズ・キャンプは、アメリカ野球の歴史に出会う旅なのだ。その中でわたしは、日本の草野球選手のプライドを持って屈強な男たちをバッタバッタと抑えてやるぞと、アドレナリンが体中を駆け巡るのだった。
フロリダへの旅立ち
日本時間の2004年11月6日(土)、いよいよフロリダへ旅立つ日がやってきた。
午前六時に目が覚める。食卓には出し巻き卵、シャケ、味噌汁とご飯が並ぶ。フロリダに行けばしばらく食べることの出来ない日本料理を用意してくれるとは、なかなかやさしい奥さんである。自宅を8時に出発。次男の車で神戸の三宮駅へ向かい、一時間強で到着。そこから9時40分発のリムジンバスで関西国際空港(以下、関空)へ行く予定である。運賃は1,800円なり。
神戸に住む長女がなかなかやって来ない。17歳からアメリカ生活を送った娘は何をするにもマイ・ペースで、アメリカの友人や留学でお世話になったホスト・ファミリーへの手紙を、「届けるから頼むで」といいながらわたしをハラハラさせて、バスが出発する間際にやっと到着する始末。だが子どもたちに見送ってもらっての旅立ちは心が弾む。日ごろは家族に対して素直に感謝の気持ちを表現するのが苦手なわたしは、外国旅行のときだけ変身する。神戸湾が一望できる湾岸道路を走りながら、リムジンバスの中から女房にお礼のメールを送った。普段から素直に表現していればもっといいのだが。
空港へは約60分で到着。そういえば単身でのアメリカ行きは初めてだった。1990年の夏、40歳で初めて日本を出て成田からシカゴに向かったときは「パンチョ伊東」が案内してくれた。伊東一雄さん(当時、パ・リーグ広報部長)の大リーグ観戦ツアーに参加したわたしは、10日間でシカゴ、カンザス・シティ、ミネアポリス、さいごはシアトルへと旅をして、10試合を楽しむことが出来た。そのときのわたしはメディア関係の皆さんについていくだけのツーリストだった。
それ以後もアメリカ人の英語教師が一緒だったり、現地で娘が迎えてくれたりで旅の孤独を感じることはなかったのだが、考えてみたら今回はまったくのひとり旅。「えらいこっちゃ」。デトロイトで乗換えがある。それも初体験だ。バッグがどこかへいってしまったというツーリストの話は多いから、トランジットの際にミスをすれば野球道具がなくなってしまう。それが一番怖いなあと弱気になっていた。
英語のできない中年男性は内心不安で仕方がないのだが、表面上は「旅慣れているぞ」と見せようとしていた。ノースウェスト航空のカウンターで無事チェックインを済ませ、ドジャータウンのスタッフへ絵葉書や日本茶のおみやげを買った。緊張感からかトイレが近くなる。関空のトイレに座っていると、韓国語の放送が2度、3度と流れてきた。なぜかそのとき、急に平和のありがたさが湧いてきて、戦争はまちがいだなと感じた。外国語の放送を聴いていると、皆同じ人類なのに「平和を壊す人間の気持ちがわからないなあ」と思えてきた。これも外国旅行のナーバスさゆえの感傷なのかも知れないが。
デトロイト経由オーランド行きの飛行機はたくさんの外国人で満席だった。天候は晴れで快適なフライトが続いていく。トイレの前で関西の元気な女性グループ(還暦は過ぎているような)に出会った。彼女たちは「カリブ海へ行くのよ」と笑った。
ひとつの団体はマイアミからクルージングの旅をし、他のグループは(異なる旅行社)オーランドから船に乗るという。いずれにしろ、彼女たちには豪華な料理とカリブ海のすばらしい景色が待っていることだろう。世の中にはお金と時間に余裕のある人たちが存在するのだなあと、あらためてわたしの身近にいる田舎の人たちの暮らしぶりと対比していた。
何時間が経過したのだろう、窓の外が明るくなってきた。機内ではウィル・スミス主演の映画「アイ・ロボット」が上映されている。画面ではロボットが人間と同じように動いている。どうしたらあんなテクニックの映画が出来るのかまったく不思議だ。
そうこうするうちに眼を閉じると、すでに故人となった人たちの顔が脳裏を通り過ぎていく。おばあさん、叔父たち、T先生の風貌と、親友だった同級生のS。そして最近43歳で急逝した教え子のF。
自分が彼らの人生をもらって生かされているような気持ちになった。するとどこからか勇気がわいてくるのだった。
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