With コロナ!? 生涯現役の日々
LAの娘に言ったら「なんや、それ?」とあきれられた。コロナと一緒に生きるってことやろと続けたら「アホか」と一蹴された。行政の方針で「With コロナ」、西脇市の「ふれあいスタジアム」では連日のゲームが。
関西独立リーグに所属する兵庫ブルーサンダースが堺(大阪府)のチームと連戦。夕方にわたしが外野の整備を、早朝には別のスタッフがトラクターで入念に内野を均していく。わたしたちがいなかったら野球場は成り立たない、ということは我々の障がい者就労支援施設「ドリームボール」は公園管理委託を返上しなくてはならない。
その中で感じているのだが、確かに選手や指導者の意識が変わってきた。独立リーグの投手と話すと、「日本は何か固められるでしょ?現役の最後はアメリカでプレーしたいんですよね」といった。お金はどれくらい必要ですかと質問され、そこでわたしは知ったかぶりでアメリカ野球事情をひとくさり語ったのだった。若いピッチャーは嬉しそうに耳を傾けてくれた。
中学生の硬式野球クラブ代表から電話が入る。「最近考えが変わりましてね」と代表。女子野球の底辺拡大や一貫指導の面からアメリカにも興味が出ました」というではないか。ベロビーチやアリゾナの話をしたら飛びついたのだ、代表は。「大谷から大リーグにはまってね、またじっくり話したいですね」。野球場ではそんな交歓風景も生まれている。
だが、わたしたちを取り巻く環境は厳しい。兵庫県還暦軟式野球連盟は8月6日の声明で9月から予定の公式戦中止を発表した。これで年内は練習のみとなった。海の向こうのフロリダからは秋のファンタジー・キャンプ延期のメールが届く。Historic Dodgertown(かつてのドジャータウン)で1年後の2021年11月7日~13日にキャンプを実施しますとのこと。今年なら参加の可能性はなかったが、よし、来年は野球人生最後の海外遠征?にベロビーチへ向かおうか、と考え始めている。
だから練習継続、生涯現役、熱中症の危険性を感じながらも毎日野球と取り組む70歳。では引き続きドジャータウン便りをご覧ください。
ドジャータウンからの便り
夢を実現するときがやって来た。5月になると佐山さんからいただいたドジャーズ・キャンプの参加申込書をドジャータウンへ郵送した。6月に入るとフロリダから我が家に返事が届いた。当たり前のことだが文章はすべて英語だった。
A4サイズの真っ白い封筒の中央に紺の輪に赤の糸でボールの型がデザインされている。そこに「Takeshi Takemoto Hyogo Japan」。左上のドジャーズ・ロゴマークの下には「VERO BEACH FRORIDA」とプリントされていた。中にはドジャータウンの全景写真と、事前に準備するためのストレッチ体操の解説書などが同封され、別に2枚の手紙も入っていた。
「Dear Takeshi 申し込みいただきありがとう。日程は11月の7日から13日まで。あなたのパッケージの一部として、ドジャーズの二着のユニフォーム(ホーム&ビジター用)とキャップ、キャンプ修了証、写真、50枚のベースボール・カード(もちろん自分のもの)、そしてビデオ、ジャージやソックス、ベルトなどをお渡しします」と書かれてあった。
他にも、カジュアルなスラックスや襟付きのシャツを用意せよとか、スパイクはカネとゴムの両方を持参したほうがいいよとか、細かい留意事項が並べられていた。これでわたしの参加が正式に認められたことになるのだ。
ほんまにベロビーチへ行くんや」そう思うとわたしは全身が熱くなった。トレーニング内容にも指示が出ていて、全体に主催者の細かい配慮が伺われる。秋にはすべての書類が届くという。
心はフロリダへ
1949(昭和24)年生まれで55歳(2004年当時)のわたしだが、ベースボールは少年のような心を運んでくれる。わたしの気分はもうすっかりフロリダだった(想像するだけの場所なのに)。夢想の世界では、野茂投手が投げたホルマン・スタジアムのマウンドにロイヤル・ブルーのユニフォームを着た自分が立っていて、ドジャーズのかつての名選手を相手に速球(気持ちだけが速球)を投げ込んでいる。英語や費用への不安は差し置いて、しばらくは自分だけの夢に浸ってみようではないか。それだけの価値がある「ドジャーズ・キャンプ」なのだと思った。
このキャンプ参加には私なりのメッセージがあった。教職を辞するとき、生徒たちに約束をしていた。「ぼくは夢を実現するために先生を辞める。アメリカへ野球をしに行くんや」と言ってしまっていた。この公約は守らなければならない。他人の評価とか、周囲の誤解・偏見などはさして意味のあるものには思われないが、自分自身では「人生に挑戦し続ける」姿勢は持ち続けたいと思う。夢を追ってのアメリカ行き。生徒の中の誰かが、わたしの背中を見ているのではないかと考えると、是が非でも「ベロビーチ」行きを実現させなくてはならなかった。
ボーイズ・オブ・サマー
涼しい風が吹きはじめると、約束どおりベロビーチから「最終の便り」が届いた。手紙には、先日のハリケーンですごく大きな被害が出たが、みなさんが訪れる頃にはすっかり元に戻っていますと書いてあった(実際に現地では照明灯や大木が折れていたからすごい嵐だったのだ)。これもラッキーではないか。いよいよ積年の夢「ドジャータウン行き」が目前に迫った。
トレーニングはもちろんのこと、英会話の本も読まなければならないし、衣類や日用品、みやげものの準備にと、忙しい日々が待っている。だが、それよりもっとたいせつな準備があるじゃないか。それは、自分が参加する「ドジャーズ」という球団の歴史を知ることだ。これにも時間をかけなくちゃ。
そこで本棚から取り出した一冊の本。「THE BOYS OF SUMMER」(邦題は、「夏の若者たち」)。著者はロジャー・カーン、訳者は佐山和夫。1997年9月10日、ベースボールマガジン社発行。この本は「アメリカ・スポーツ文学の最高傑作」ともいわれ、ロジャー・カーンによると、大学などのアメリカ文学のコースでは必ず読まれる本だという。
アメリカ野球機構は発足の1884年から、ジャッキー・ロビンソンがドジャーズでデビューを果たした1946(昭和21)年まで、60年余にわたって黒人選手を締め出していた。「ボーイズ・オブ・サマー」は若き日のロジャー・カーンが、ヘラルド・トリビューン社の記者として一年間ドジャーズと旅をともにした物語だが、そこには初の黒人選手を迎えて困惑する人々の姿が誠実に描かれている。
ジャッキー・ロビンソン一塁手の足を狙ってスパイクしようとする相手選手たち。スタンドも白人席と黒人席ははっきりと区別され、ロビンソンといえども白人選手と同じホテルに宿泊できない現実。若き記者は人種差別に憤慨する。「わたしたちはゲームを書き、選手を描き、理想を語る。それはするが、ここにある恐怖物語・・・つまり人種差別について誰も書こうとしないのはおかしいのではないか」という姿勢で、ドジャーズのメンバーに接していく。
毎日毎日、彼は黒人初のメジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソンの一部始終を見ることになる。ひどかったそうだ。特に当時のカージナルスの野次がひどかったという。ゲームの最初から最後まで、「おい、黒人(ニガー)」、「ヘイ、ポーター!俺の鞄を運んでくれ」と、ロビンソンに言い続けていた。
カーンがそれを正直に記事にするとデスクにしかられる。「ヘラルド・トリビューン新聞はジャッキー・ロビンソンの共鳴板ではない。人種問題ではなく、野球の記事を書け」と。
この本に登場する選手たち。21歳で21勝をあげたラルフ・ブランカ。ロッカールームで、ロイ・キャンパネラ捕手やジャッキー・ロビンソン(二人とも故人)の隣に座っていたカール・アースキン投手。彼は1953年のワールド・シリーズで奪三振記録を作っている。カーブが得意だったクレム・ラバイン。いつもロビンソンの隣で着替えていたデューク・スナイダーは、通算418ホームランの外野手だった(殿堂入り選手)。
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