75年目の終戦記念日に想うこと
75年前の8月15日も夏の陽が照りつけてはいたが「静かな日だった」と語っている人が多い。神戸新聞の「正平調」は「但馬戦没兵士の手紙」(岡弘著)を引用して、兵士の脳裏に浮かぶ故郷の四季について書いている。「ああ、なつかしい故郷。老いた母さんの姿が思い出される。カエルの声にむし暑い田舎を思い出す・・・」
わたしの散歩道(走ることの方が多いが)は杉原川の堤。こどもたちが泳ぎ、潜って魚をとった川。安田富士に向かって緩やかな曲線で北に延びる道。戦地で散った村の若者たちはきっと、母親の姿とともにこの川の景色を懐かしがったことだろう。
私を育てたオバンは戦争で二人の息子を失った。一人はルソン島ママヤン部落で、兄の方はソロモンで戦死している。「正平調」は続ける。「(8月15日)確かに国家や軍部の戦争は終わったかもしれないが、それでわが子の帰りを待ちつづけた母の戦争は終わったか」
終戦から75年が過ぎたのだ。オバンは自分たちの子孫がロサンゼルスに住んで二人の子どもを育てている現実は知らない。もちろん戦死した二人も。おばんがわが子のように育てた孫(わたし)はなぜか陸上競技の世界を離れて野球に熱中し、あげくにフロリダまで行くことになるなんて。家族の歩んだ75年、感慨深い2020年の熱い暑い8月15日だった。
では引き続いてのドジャース・キャンプ体験記を。
わたしの英語力
次に必要なものは英語力だが、わたしは簡単なあいさつ程度の語学力しか持ち合わせてはいない。そのことを知らない知人は、たびたびアメリカへ行く姿を見て英語ができるものと勘違いをしている。ベロビーチでは英語ができない悲哀をどれだけ痛感したか。それはこの報告の中にたっぷりと出てくるはずだ。
ただ、私は外国人とコミュニケーションをとることはさほど苦にならず、どちらかといえば、日本人といるときよりアメリカ人といる方が楽しいと感じるタイプかもしれない。娘がワシントン州とカリフォルニア州で、8年に渡る留学生活を過ごしたのでその過程で多くの外国人と接する機会があり、自然とアメリカ人をはじめ、異文化との交流に興味が持てたのだと思う。
それまでも単純に、ホットドッグとコーラは好きだったが。健康と環境に関する知識を得てからはできるだけ遠ざけているファストフードも、数年前までは好んで食べていたものだ。当初は偏った情報(コマーシャルなど)に影響された形でわたしの「アメリカかぶれ」は始まったが、その延長線上に大リーグが存在していたのかも知れない。
佐山和夫氏が、キャンプを楽しむ条件の三つ目に挙げている人間性。それも言葉を変えればコミュニケーション能力かもしれない。国が違っても、性格の多様性や人間味は各国共通で、単に野球が上手なだけではアメリカ人キャンパーに溶け込むことは難しいのではないか。多くの外国人と出会った経験、スカパーで洋画を楽しむ習慣のおかげで、ベロビーチのキャンパーたちに「オー タ・キ・モ・ト!」(彼らにはタケモトのケの発音が難しいようだった)「タキ、タキ」と声をかけてもらった。彼らのもてなし上手に素直に乗らせてもらったら、言葉の壁も少しは薄くなったように思えた。
ここで佐山さんの的確な言葉を拝借しよう。「ここに記した①②③は、実はその重要度においては、順序はこの逆であるということだ。野球の技術なんて、人柄の重要性に比べたら、何ほどのものでもない。これらのキャンプに参加されるのなら、野球技術よりも英語力を、そして英語力よりも人格を磨いていかれるようお願いする」
作家への手紙。2004年の春、私は佐山さんに手紙を書いた。簡単な自己紹介とドジャーズ・キャンプへの参加方法を教えてくださいとお願いして。すぐに返事が届いた。「ちょうど高野連(全国高校野球連盟事務所)で講演をするのでそのときにパンフレットと参加申込書をお渡しします」とのことだった。
小春日和の一日、わたしは大阪にある高野連事務所へ行った。事務局員に佐山さんの名前を告げると親切に会議室まで案内してくれた。こんな幸運がなければわたしが高野連の建物に入るチャンスはなかったはずだ。
講演内容は「野球の起源」に題する歴史的なお話しだったように記憶しているが、講演後、作家は無造作に「はい、これがキャンプ申込書ですよ」と、微笑みながら封筒を手渡してくれた。日焼けした初老の顔に、積み重ねた知性が匂っていた。
0コメント