アメリカへの道のり

 異文化との出会い

 かつてまとめていたドジャース・キャンプ体験記を発表していますが、このキャンプでは自分がアジア人であることを痛感する場面が多々ありました。2020年の大リーグ開幕戦では写真のように膝をついてアメリカにおける黒人差別の実態を糾弾する動きがありましたが、わたしはベロビーチで微妙な感覚を味わっていました。

 朝食のテーブルに着くメンバーは毎朝同じ。夕食も似通った仲間が集います。われわれアジア人と親しく会話をする人もいれば、1週間まったく話さない人たちもいました。逆に「プレーで見返してやるわ」とファイトがわいたものです。とはいってもそこはドジャース、はじめて黒人選手を迎え入れた伝統があり、メキシコ人のバレンズエラ投手も一時代を築いたチームだし、野茂英雄をはじめとする日本人選手も在籍したオープンな歴史を持っています。

 ただ、夜のバーカウンター。英語が苦手で注文が偏り、「バドライト」(ビールですが)を連発すると、内側の女性曰く「ニホンジンはバドライトが好きねえ」と嫌味を。それくらいの英語はわかるわいと思いながら、情けない思いがしたものです。だが、ベロビーチにはそんな不快感を吹き飛ばす「ベースボールの楽しさ」が充満していたのも事実です。では続きをお読みください。

 

 「59歳のドジャーズ・キャンプ体験記」を読んだときから、わたしは「いつの日かベロビーチへ行くぞ」と決めていた。その夢を8年間、ずっと温めた。しかし、本に出会ったからといって、誰もがアメリカ野球にあこがれるわけではない。

高校から大学、社会人、そしてプロ野球にいたるまで、日本中にはすぐれた野球技術を持つ人は限りなく多い。だが実際に、ベースボールの本場まで足を伸ばしてプレーをしようと考える人は少ない。

 人が行動を起こすには、そうなっていくための必然的な経過という道筋がある。心の中にやむにやまれぬ思いがあって、それが年月とともにエネルギーとして蓄積され、いつの日かマグマとなって表出する。わたしのアメリカ野球へのアプローチも、小さな動機が積み重なった結果だった。

佐山さんは体験記のあとがきで、キャンプを楽しむ条件を三つ挙げている。

① 野球の技術

② 英語力

③ 人格

 ではわたしの野球レベルはどの程度のものだろうか。

実はわたしは軟式野球(草野球)しか知らない。甲子園につながる高校野球の経験もなく、中学2年から大学3年までは陸上競技部に所属していた。日本の社会では、学校の部活動に参加したかどうかが「専門家」の定義に含まれる要素が強いから、そういう意味では、わたしは「野球の素人」ということになる。

 また反面、プレー経験の有無からいえば、まったくの素人ではないかも知れない。最初に野球に触れたのは夏休みに行われる子ども会主催の少年野球大会だった。それに向けて小・中学校時代は連日(元旦の寒い朝でも)、町内の仲間と野球の練習をしていた。1961(昭和36)年当時、田舎における子どもたちの遊びといえば、野球か魚(さかな)とりしかなくて、夏休みには子どもたちの健全育成も兼ねて、各地で子ども会主催の野球大会が開催されていた。

 それは町対抗だったから、大人も含めてけっこう熱が入り、地元新聞の「西脇時報社」が大会の組合せや登録メンバー、あるいは試合経過などを掲載して盛り上げてくれた。少年野球大会は、学校の野球部に所属しないわたしたちにとっては、正式なユニフォームや、金具のついたスパイクを着用して野球部員と競い合うことのできる、唯一の晴れ舞台だった。

 そんなわけで、わたしの野球技術は我流そのもので、アベレージはまずまずだったが、打球は右方向へしか飛ばなかった。体が投手側へ流れる癖があって、レフト方向へ強い打球を飛ばすことが苦手なのだ。それは野球とゴルフのクセとして今も続いているようだ。経験したポジションはピッチャーとキャッチャーだけだから、内野のフィールディングとなるとからっきし自信がなくて、草野球のゲームではピッチャー・ゴロをファーストへ悪送球することも珍しくなかった。こうして野球部の経験こそなかったが、少年野球体験はしっかりと体にインプットされ、その後の技術習得に非常に役立ったと思う。

 中学校の体育教師になってからは地元の軟式野球チームでプレーをした。

 兵庫県軟式野球連盟の西脇支部に所属する「日野クラブ」では、27歳で投手を始めてから、計26年間にわたってプレーをすることができた。わたしが投げていた時代は強豪企業チームにはなかなか勝つことが出来ず、県大会ベスト4が2回あるのみ。

 新日本スポーツ連盟(当時は新日本体育連盟)主催の全国軟式野球大会では、二度の優勝を経験させてもらった。すべてはすばらしいチームメイトがもたらしてくれた成果である。わたしのバックには、地元の高校で活躍した人たちがたくさんいて、中には甲子園(全国高校野球大会)や神宮(全日本大学野球選手権)で活躍したメンバーもいた。

 球速は若いときで125キロ程度。今なら105キロ?不器用だが連投の効くスタミナと、コントロールにだけは自信があった。どちらかといえば、カーブよりもシュートボールを得意とする草野球投手。身長は173cmで体重72kg。これでわたしのおおよそのイメージは伝わるだろうか。そんな軟式野球しか知らない男が、ベロビーチでアメリカの大男たちと対戦する夢を見た。

  ここ数年は自宅ガレージに硬式ボールをたくさん用意して、連日ネットに向かって投げ込んでいたので、55歳になるけれど、ひょっとしたら通用するかもしれないと、楽観的な挑戦心が膨らんだ。やはり野球の経験が皆無だったら、ドジャーズ・キャンプの参加を夢見ることはなかったかも知れない。

シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

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