野球が育てた師弟の愛

ドジャース・キャンプを離れて追悼文。

 わたしの中の「巨星」が逝った。7月26日17:50、西脇市の「やすらぎ苑」で対面した。生前の豪快な笑い声が蘇り、わたしは自然に涙があふれてきた。T先生の遺影に次の拙文を贈らせていただきます。「先生、ありがとうございました」

☆ 2001年4月28日、徳島池田高校野球部を率いて甲子園のファンを魅了した「阿波の攻めダルマ」(のんべえ蔦さんともいう)、蔦文也監督が亡くなった。さみしいですね。プロ、アマを問わず今は個性的な指導者が少ないだけに、わたしとしては彼の死に一つの時代の終焉を感じてしまった。

 蔦監督の訃報を伝えるテレビには、ジャイアンツの水野投手コーチをはじめ多くのOBたちが映し出されていた。一度観光バスの中から眺めただけだが、池田高校は本当に山の中だった。その学校からすごい選手たちが育っていった。

 「山の子どもたちに大海(甲子園球場)を見せてやりたいんじゃ」と願った蔦文也がいなかったら、池田の町はとても高校野球史に登場する土地ではなかったと思う。

 実はわたしの住む西脇市も人口4万人足らずの兵庫の田舎町だが、14人のプロ野球選手や東京六大学のエースも複数育っている。甲子園球児も、PL学園、報徳学園、育英高校、東洋大姫路高校、中京商高(現、中京学院大中京)と、数えきれないくらい輩出している。ヤクルト・スワローズの丸山完二、近鉄バファローズの317勝投手・鈴木啓示、慶応大学のエースで後に産経アトムズで投げた藤原 真選手らが代表的だ。それから、立教大学の長嶋茂雄(当時)に東京六大学新記録の8本目のホームランを打たれた慶応大学の林投手も西脇市の出身である。

 当時の西脇中学校野球部監督はF先生だった。F先生の赴任は昭和27年ころだと思われる。そして2年後にいきなり県大会で優勝してしまった。F先生は自分のことを語ることのない人で、その経歴もベールに包まれていて、親しくしていただいたわたしも詳しくは知らない。聞くところでは、F先生は戦前の中等野球大会で捕手として甲子園の土を踏んでいて、のちに「和製・火の玉投手」と呼ばれて大毎オリオンズで大活躍をした荒巻投手と対戦している。F先生とバッテリーを組んだのが、のちの大洋ホエールズの山根投手である。

 いわば、すごい球歴の持ち主が田舎の中学校へやってきたわけだ。わたしの手元に昭和29年(わたしが5歳のとき)8月13日号の「西脇時報」がある。タイトルは「西脇中學優勝す・市民歓呼の渦巻き」。記事によると、8月9日は数千の市民が生徒たちを出迎え、写真で見る昔の駅前通りが人垣でいっぱいだ。その中を優勝旗を先頭に「西中ナイン」が歩いている。メンバーは9人だけ。池田高校は「さわやかイレブン」で、さしずめ西脇は「さわやかナイン」。ちょっと語呂が悪い?

 西脇中はその後、県大会準優勝2回、地区大会7度優勝を飾り、古豪チームとして兵庫県下に名をとどろかせることになる。こうしてF先生は西脇に野球の花を咲かせたが、わたしが何より感動するのは先生と教え子たちとの心の交流だ。

 今も中学校の横を毎朝、一台の車が通る。昭和29年県大会優勝メンバーの一人であるT先生(元西脇市教育委員長)がハンドルを握り、隣にはいつも70歳を過ぎたF先生が座っている。モーニング・コーヒーからふたりの朝が始まっていくのだ。

 平成9年の秋、「西脇市青少年健全育成市民大会」の開会あいさつで聞いたT先生の話が忘れられない。


 「わたしは中学校の野球部時代をよく思い出します。真夏でも水は飲ませてもらえないし、バントを失敗したら川向こうの山を走らされるし、それは厳しい練習でした。あるとき、先生に立たされて何時になっても許しが出ない。そのうちに暗くなってくるし、みんなは帰ってしまった。

やっと9時頃に先生の自転車がやってきて、先生が、すまなかったと泣いてわたしの肩を抱きました。ホッとしてわたしも先生に抱きついて泣きました。あのときの涙が、その後の50年近い人生を支えてくれたように思います」


 思い出して自転車を走らせた先生と、素直に立ち続けた生徒と、それを黙って見守っていた親たち。昔、野球の世界ではこういう師弟のつながりがあった。

 昨年の11月、鹿児島県指宿(いぶすき)から1枚の絵ハガキが届いた。差出人はT先生だった。「特攻のまち、知覧に来ています。自由も平和もこの町から考えねばいけないのかも・・・。涙も少なくなりました。西脇に帰ったら涙をください」

 だからというわけでもないが、私は先日ひとりで映画「ホタル」を見ました。知覧を舞台に、主演の高倉健が元特攻の役を演じていました。あの時代、野球がしたくてたまらない若者もたくさん出撃していったんだろうな、そういえば蔦さんも特攻の生き残りだった。

 暗い客席で涙を拭きながら思った。(F先生やT先生に教えてもらった旧き善き野球の心をどうやって若者たちに伝えていこうか)と。

 お二人はきょうもおいしいコーヒーを飲んでいるだろうか。わたしは、先生たちの朝の儀式がいつまでも続くことを祈りながら、野球の未来を考えようと思う。六月の太陽の下で☆


 お二人のコーヒーは長くは続かなかった。そして、わたしの涙も今日で少なくなりました。T先生、あなたは西脇一番の知性でした。ありがとうございました。






シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

輝くシニア発掘~中高年に励ましを~

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