日米野球史を読む
障害者就労支援施設「ドリームボール」が忙しい。古希野球の練習も思うようには参加できない状況ではあるが、心を一つにして取り組む仕事は面白い。スタッフもいい人物がそろった。利用者の明るい顔を眺める楽しさもある。71歳の秋としては充実の日々だと思う。
仕事の事務は多いが、その合間に日米交流史を紐解く日々。故・今里 純氏の業績をいざ「野球文化学会」に寄稿するとなると日米交流の歴史に精通し、そこから疑問点を洗い出さなければならない。池井 優著「白球太平洋を渡る~日米野球交流史」(中公新書)を読み、池井先生(元慶応大学教授)の教え子である波多野 勝氏の「日米野球史~メジャーを追いかけた70年」(PHP新書)に目を通している。
今里資料が、戦後の日米野球交流史の空白部分を埋めることができれば望外の喜びとなる。「自分にしかできない仕事なんだぞ」と、幸せに固く信じて邁進しよう。そこには「日米両国の野球に憑かれた男たちの情熱のドラマ」(池井氏)が存在するから。
とすれば、草野球しか経験のない50歳台の日本人がはるばるフロリダを目指した野球の旅は、「情熱のドラマ」以外の何物でもないと思えるのだ。あぁ、ベロビーチの夜は更けていく・・・。
眠られない夜
部屋へもどってもう一度シャワーを浴びてくつろいだ。同室の高橋勝巳さん(静岡の男性)は還暦野球(60歳以上の人たちで構成されている)のゲームを終えてからフロリダ入りするそうで、英語の達者な高橋さんが到着するまでわたしは孤独なキャンプ生活を余儀なくされそうだ。
二つのベッドには、ドジャーズのロゴ入りTシャツと日程表が整然と置かれていた。だが時差ボケというのか、日程表を見る気力も、荷物を整理する意欲もなく、わたしは早々とベッドにもぐりこんでしまった。
「あれ、もう朝かな?」。眼を覚ましたら時計の針はまだ午前3時。神経が高ぶっているのか時差の影響か熟睡できない。仕方なくベッドの上でストレッチ体操をして、それからコーヒーを沸かして飲みながら、関空出発以後の日記を書いていた。
ここはフロリダのドジャータウン、ベロビーチの宿舎。しかも真夜中。眠られずに体操やシャドー・ピッチングを繰り返す55歳の日本人。やはりこれは、道楽というよりは「挑戦」と呼ぶべきなのだ。「日本に居るほうがよっぽど楽やわ」、知人が聞いたらあきれるようなセリフを吐いて、わたしは朝まで起きていたのだった。
英語のスケジュール表
キャンプ中は毎朝、当日の日程表が配布される。7(日)の早朝にわたしはあらためてそれらの書類を眺めた。「EARLY ARRIVAL SCHEDULE」。これは早めに到着した人たちのためのものだ。これくらいの英語はなんとなくわかるぞ。「Continental Breakfast」。よくわからないが朝食は7:30~8:30で、それは「no additional charge」だから無料ということかも知れない。その他はまったくわからないが、ロッカールームのオープンは11:30の予定となっている。
その後はベッドに寝転んで、ウトウトしながら夜が明けるのを待った。もう水の音がしても隣室の迷惑にはならないだろうと、7時にシャワーを浴びて着替えた。この後はまた英語だけの朝食会場、「CONFERENCE CENTER」が待っている。食堂に入ると受付係りの年配女性がたどたどしい日本語で「おはようございます」と笑った。彼女の後方には近鉄バファローズのユニフォームが飾られている。ブレックファーストはたくさんのお皿と食器が並んだバイキング形式だった。
カリカリのベーコン、スクランブル・エッグ、果物などがたくさん並び、おいしいオレンジジュースが何杯でもおかわり自由。パンも美味い。アメリカの朝食ではオレンジジュースの味が最高だと思う。自然な感じがして本当においしい。初心者の失敗は許される。コーヒーが飲みたくてカップを持ってウロウロしたが、どこを見てもコーヒーポットが見当たらない。「まあ、しょうがないか」とあきらめて座ったら、黒人の若い女性がポットを持ってテーブルにやってきた。コーヒーはテーブルで待っていたら注いでくれるのだ。
しかもそのポットが2つあって片方には赤い目印がついている。カフェイン・フリーのコーヒーポットに印があると知ったのは3日後だった。ソフトクリームのマシンが設置されているのを知ったのはもっともっと後だった。話す相手もいなくて(実際英語では話せないが)、「グッモーニング」だけを頼りに初の朝食タイムを乗り切った。野球よりも緊張するわ。
ロッカールーム
朝食後はデジカメ片手に、初めて見るドジャータウンの施設見学を兼ねて散歩に出た。メインのホルマン・スタジアム、フィットネス・ルーム、プールなどを見てから、事務所へ立ち寄る。最初に手続きをしたこのオフィスでは、果物やコーヒー、そしてチョコレートを自由にいただくことが出来る。事務所でもらったコーヒーを片手に、パームツリーの下を歩いていると小さなリスが走り去り、そのあまりの可愛さに、日本の我が家に居るネコちゃんたちを思い出してしまった。
ドジャータウンにはキャンパーたちが参集し始めたのか、あちこちであいさつの声がする。メイドさんたちが繰り返す「ハウスキーピーング!」の声がリズミカルに宿舎を駆け抜けていく。
待ち望んだ11:30、いよいよロッカールームがオープンするのだ。わたしはカンファレンス・ルーム正面から入って、ロッカー入り口の鉄の扉を開けた。室内はまだガランとしていて、キャンパーの姿はまばらだった。わたしのロッカーはすぐに探すことが出来た。背番号「11」のドジャースと同じ新しいユニフォームが二着、ハンガーにかかっているのをしばらくじっと見つめてから、ゆっくりと着替えを始めた。
わたしの左隣のネームプレートには、かつて読売ジャイアンツで原選手(現監督)とクリーン・アップを打った、レジー・スミスの名前が見える。わたしはこの日、体調を考えて昼食抜きで練習に備えることにした。兵庫県の田舎からはるばるフロリダの地へやってきたルーキーキャンパーは、ドジャースのユニフォームを着た自分の姿を鏡に映しながら、徐々に本気モードに突入していった。
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