家族の健康あっての古希野球
もう日が過ぎて忘れかけていた還暦野球の練習試合、最高の出来だった。11月12日(木)のこと、その日は三田市の駒ヶ谷公園野球場で三田プリンスと尼崎ポパイの練習試合だった。第1試合は7番セカンドで先発出場。3打数2安打(いや一つはエラーかな?)、まずまずの出来。第2試合は先発のマウンドへ。
今年からマスクをかぶるYさんはノーサインで投げさせてくれる。決めるサインは三つだけ。外角、内角、高め。投げる球はわたしの自由にしてくれるからとても投げやすい。今シーズンからセットポジションで投球するので、コントロールがよくなった。小さく曲がるスライダーと縦の大きなカーブを混ぜながらシュートも見せる。高めもつくから打者を打ち取りやすい。7イニングで失点1、三田は13点以上の差をつけたと記憶している。
みんなよく打って、やっぱり練習はうそをつかないと感心して帰路に就いた。快い疲労感がたまらない。1日休んで土曜日は別所中時代(三木市)の教え子とゴルフ。ちょっと肉体の酷使だ、油断しているなと思ったらその後アレルギー性鼻炎の調子が悪くなった。そんなとき、女房に異変が。
平和運動の朗読会開催中に気分が悪くなって医院へ。そこでは血圧が上昇せず救急車で西脇病院へ搬送されて入院となる。心臓に持病があるから心配である。翌朝病院から呼び出しの電話がかかり、またまた救急車で北はりま総合医療センターへ移動となる。幸いに造影剤で検査の結果、血管そのものは元気なのでプレートをはめる手術は回避できたということだった。若い医師の説明にはプロとしての実力が備わっていた。17日~今日現在(23日)まで家内は病院暮らしである。
独身の同級生が「そんなんAコープに行けば一人用の鍋もあるし」と教えてくれて、買いましたよ、鍋。それにから揚げ、刺身、大好き赤飯・・・。しかし3日も続いたら飽きが来て日頃の家庭料理のありがたみがしみじみわかってくるのだった。同時に、還暦や古希の野球が楽しめるのは家族の健康あってのこと、それもわかってきた。
「ワシな、女房が死んでから何にもする気がせんで、酒ばっかり飲んでいたときに、この野球を教えてもらったんや」、そう語ってくれたKさんは数年前に亡くなられたが、生前の口癖は、「あんたの球を受けるのがワシの生き甲斐やねん」だった。家内の入院で、ブルペンにどっしり腰を下ろすKさんの顔が泛んだ。「今のうちに大切にな」と笑っているように。わたしは71、家内は72歳、ひとりぽっちの我が家でこれからの人生を考えていた。
そこへ喪中はがきがまた一枚。埼玉県越谷市から手製の素朴な文字で書かれたもの。「去る1月12日早朝、弟 K・Hがすい臓がんのため永眠いたしました。七十歳を過ぎたばかり まだまだこれからだったのにとの思いでいっぱいです・・・」。1月に亡くなっていたのか。ため息が出た。また一人、思い出の人が死んでいったのか、と。
Hさんとは31年前、1990年の夏、わたしが初めてアメリカを訪れた記念すべき「大リーグ観戦ツアー」でご一緒させてもらった。パンチョこと伊東一雄さん(元パ・リーグ広報部長)を中心に、TBSのTアナウンサーなどマスコミ関係者も同行された。Hさんは当時週刊誌等に日米野球に関するルポを掲載されていた。寡黙で優しい人物だった。好きだった。
10日間、シカゴ、カンザスシティ、ミネアポリス、シアトルをめぐるベースボールの旅は最高の素晴らしい思い出となって今も記憶に鮮明である。伊東一雄さんが生きていたらわたしが現在取り組んでいる故・今里 純氏の日米野球資料について語れるし、Hさんはじめ物故者となった4人のメンバーにもう一度会って野球の話がしたかったと、今となっては残念でならない。
元気に生きている身としてはまだまだ社会に役立つ仕事を成し遂げねばならない。Hさんの喪中はがきを横に置き、わたしはクラウドファンディング(インターネットを介して不特定多数の人々から少額ずつ資金を調達する手法)をスタートさせた。会社はキャンプファイアイー「KAMPFIRE」。さっそく返信があったぞ。「プロジェクトの申請を受理しました」だって。数日後に何らかの示唆が来る。これを成功させて必ず「今里 純日米野球資料館」を開館させる。そしてそこに、Hさんやパンチョの写真も展示するぞと思いを巡らすのである。
昼にたくさん食べたから、今夜はりんご一個と菓子パン一つ、それとコーヒー。独身生活の良さは頭がさえる、アルコールが減る、腹も減る、なによりダイエットなり!(負け惜しみ?なり)
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