野球があって救われた、2020年

 雪が散っている。新型コロナ禍で子どもたちが帰省しない正月を迎えようとしている今日は、12月31日。今年は静かな正月になる。焼酎を2本用意した(1本は貰い物)。おせちも準備できた、熱いおでんもある。あと日本酒を買うと社会人駅伝、箱根駅伝TV観戦の小道具はバッチリ揃う。箱根駅伝1区の三浦君に期待して(順大のスーパールーキー)古希野球のシーズン・オフ、仕事のオフを満喫させていただこう。

 水島新司さん(81)が引退を発表した。漫画家人生63年。先生はドカベン、あぶさん、水原勇気などたくさんの主人公を誕生させた。友人の紹介で水島先生と知り合い、神宮外苑や多摩川河川敷で野球に参加したことは人生のすばらしい思い出の一つとなっている。

 水島漫画の一つ「野球狂の詩」。女性左腕投手・水原勇気がスリークォーターから繰り出す魔球が並み居る打者をなぎ倒す、その魔球は「ドリームボール」。無断で水島先生から拝借したネーミングがわたしたちの運営する就労継続支援B型(障害者就労支援施設の一つ)の施設名となったのは必然の流れ?

 28(月)はその施設「ドリームボール」の仕事納め。午後のスタッフ・ミーティングは過去最高(ただしわたしの実感)の充実度。「何もわからないままの私をあたたかく迎えてくださり、とても感謝しています」(9月から勤務の若い女性)。「昨日の弁当メッチャおいしかったです。すばらしいスタッフが揃いましたね。Tママのがんばりで新しいサビ管(サービス管理責任者)もできたし、ドリームは今のワシの生き甲斐です」(71歳男性)

 職場の充実を背に、わたしは三田プリンスの古希・還暦野球練習会に参加した1年だった。冬とは思えぬ陽光が車中に流れこみ、故郷の山々が光る。日々やることがある喜びを感じ、仲間と野球ができる喜びに浸るとき、健康はもちろん、すべてのことに感謝の念がしみてくる。三田谷公園野球場へ着く、まずトイレ、マスク姿の仲間に挨拶、そしてグランドへ。

 野球を愛してやまなかったSさん(78歳?)が亡くなられた年だったが、三田プリンス練習会には毎回30人前後の仲間が参加した。ラジオ体操第一、ストレッチ、外野往復の軽いランニング、もも上げから5分の休憩を経てキャッチボールへ。「パチン、バシッ」グラブの音がうれしい。肩やひじ、腰やひざの関節がのびていく感じがして心地よい。

 トス・バッテイングでは高齢のMさんと組むことがある。この人は全球ピッチャーにワンバウンドで打ち返す、基本的な技術がすごいのだ。「ワシらのときは横へ行くと取ってもらえなかったわ」と笑いながら打っている。トスのとき「よっさんのグラブさばきは上手かったなあ」とサラリ、よっさんとは吉田義男氏(元阪神)のこと。Mさんは元立命館大学の内野手だった。「よっさん」とは同級生の御年87歳。

 試合形式のフリーバッティングが勉強になった1年でもある。マウンドで約70球。今年から取り入れたセント・ポジションからの投球で、捕手はノーサイン。スライダー、縦のカーブ、シュート、高めのストレートを思ったように投げていく。これがピッチングの向上に役立っている。たまには紅白戦、打者のレベルに合わせてピッチングを変えながら対戦する緊張感を楽しむことができた。練習だけのシーズンだったが、それだけでも野球は愉しかった。来シーズンはチェンジアップを習得したいものだ。

 1991年~2015年まで慶應義塾高校野球部監督を務めた上田 誠氏は次のように語っている。「神奈川県下ではこの1~2年間でトミー・ジョン手術(ひじの靱帯)を経験した小学生が約20人と聞きました。今、少年野球では年間200試合のチームもある。リーグ戦形式や、2カ月のオフを設けるなど、子どもたちを守る体制が必要だ」と。

 もちろん試合は最高の場ではあるだろうが、練習試合あるいは練習だけでも楽しいし、技術は向上する。新型コロナ禍で、わたしが発見した新しい野球の在り方の一側面。世の中では新型コロナ後の社会は「新自由主義からの脱却」だとか何とか言われているが、野球の世界でも何らかの変化が起きてくるだろうと予想する。

 仕事の合間に還暦・古希野球に参加する。練習後、先輩たちと感染に気遣いながら「くら寿司」で憩う。その後はスタバのドライブイン。疲れた体に熱いコーヒーがしみ込んで、昭和40年の冬、社高校体育科一期生のスキー実習(神鍋高原)リフト上で聴いた加山雄三のセリフが口に出る。「ぼくぁー幸せだなあ」。

 三田プリンスが存在して、健康な体があって、わたしは2020年、野球によって救われた。

シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

輝くシニア発掘~中高年に励ましを~

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