昭和~野球への誘い(いざない)~
冷雨の土曜日が過ぎてやっと初春の陽がさしてきた3月14日、日曜日の朝、女房は弔問に出かけて行った。町内の友人と連れ立ってお悔やみに。一度に2軒の弔問である。
80歳の男性は同級生の兄。物静かな人だった。あとの一人は90歳に近かったと思う。元は我が家の東隣に居を構えていて、そこが周囲を家に囲まれていたから、台風になると祖母がわたしの手を引いて東隣を訪ねたものだ。「みよしの家は安全や」と。
子どものころはよく公民館の2階にたむろした。町対抗少年野球大会のことや学校生活の話題など、2階へ行けば仲間がいてなんとなく時間が流れていった。退屈など無縁だった。公民館の和室には幾枚かの写真が飾られていて、そこには青年団陸上競技大会の表彰状が晴れ晴れしかったのを覚えている。当時30歳台となっていた「みよっさん」の若々しい姿が額に入っていた。その世代の人たちは、1959(昭和35)年わたしたちが町対抗少年野球大会に出場し始めると、日野小学校にテントを張り、大声で声援を送ってくれた。試合後は冷えたスイカも、甘いジュースも用意してくれて「村の子どもたち」を育ててくれたものだった。
「子どもたちの健全育成を」と、村の住職の提案があってわが町の少年野球が始まった。昭和30年代に中学校の野球部員はわずか1名だけ。他は全員「帰宅部」のチームは、しかし年がら年中野球の練習に明け暮れて技術を高めていった。チームワークは抜群、夏休みなど何しろ朝から晩まで一緒に居るから半ば家族みたいなもの。当時の野球経験があって、村の大人たちの支えがあって、わたしは今も野球をやっている。古希野球。当時の「みよっさん」が亡くなった。ゆっくり、ゆっくりと時代が変わっていることを実感する日曜の朝だった。人々が去り、昭和30年代の小学生は明日、宝塚スポーツセンターへ古希野球の練習試合に向かう。あの大人たちがいなかったら、わたしの古希野球は存在しなかっただろう。
今朝7:30に家を出て中国自動車を上って行った。気温上昇を予感できる朝だった。8:30宝塚スポーツセンター着。9:15練習試合開始と連絡を受けた。ランニング、ウェイトトレーニングも予定どおりにこなし、昨日は羽安町のあぜ道で短距離走を繰り返しよいコンディションで開幕前の重要な試合に臨むことができた。結果は2-0の完封で三田プリンスが宝塚グリーンスターを破った。わたしは5イニングを任された。
昨年までは投げなかった新しい変化球(一応隠しておく)が効果を見せて速球の威力が増したから、まったく打たれる気がしないピッチングだった。今シーズンから古希野球に参加している選手がバックを守ることでさらにチーム力が上がっている。(ピッチング内容の詳細は省く。企業秘密?笑)。愉しいマウンドだった。伊丹空港を発着する飛行機を眺めながらの古希野球。こんなとき、わたしはいつも昔の同級生や、今は消息すらつかめない町内会の野球仲間に話しかけている。「まだ元気に野球をしているよ」と。
いいピッチングは背番号効果?新しいユニフォームの背中には草野球初の番号「18」が躍る。一つ年上の明るい「たまちゃん」が、「セカンドから見ると尻と背中が大きく見えるわ」と笑った。「18番だからおかしなことは出来ないな」と思うから後姿が違って見えるのかも。
チームの先輩と三田市内で遅めの昼食をとる。おいしい寿司をいただいた。帰路スタバのドライブスルーで「アメリカーノのトール」を注文。音楽と暖かい日差しと勝利の余韻。そしてコーヒーの香り。60年前の野球への誘いが今日の古希野球と分かちがたくつながって、生きる希望を与えてくれるのだった。来週の月曜日は尼崎市の小田南公園野球場で開幕戦を迎える。わたしはまた、同級生や村の大人たちとともにグランドに立つことだろう。
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