身辺雑記・・・還暦全国大会中止決定
10月8日開会予定だった還暦野球全国大会(新潟市)の中止(延期?)が正式に決定したそうだ。これで二年連続の中止(延期?)となる。大変だ。意欲失う選手も多数出るだろうことが予想される。何しろ60歳以上の人たちなのだから、仕事を持ちながら、あるいは体力の低下とたたかいながら野球の練習を継続するには相当な努力、覚悟がいるはずで、「もう疲れたわ」と野球から離れる人が多数現れても不思議ではない。わたしたちは2年続けて生き甲斐を奪われている。
いきおいわたしの生活は仕事中心となる。障害者(主に精神)と呼ばれる人たちと外作業を行っている。最近、西脇市の複合文化施設「Miraie」広場の草刈りを受注し、イベントに合わせて整備しているが、梅雨から猛暑へとなかなかハードな作業である。昨日は慰労と新メンバーの歓迎会を兼ねて4人のメンバーをラーメンに誘った(加東市・参加は3人)。「先に行って予約しときます」と憎めないMさん(6月から通所)、11:00オープンの店に9:30から並んで、タバコを吸ったりよだれを垂らしたりしながらわたしたちを待っていてくれた。やさしいのだ。
各自がラーメンを2杯ずつ注文。瓶ビールを3本飲んだ39歳もいる。作業を終えてラーメン屋に自転車を置くMさんを加東市へ送り、「気をつけて帰ってよ」と呼び掛けると「うん」とうなずくMさんだったが、その表情に素直な清潔さと、感謝の気持ちが浮いていたように感じられた。そんなとき、「引退しづらいなあ」と思うのだ。来年からも週2回くらい「この人たちとかかわろうかな」と、去る決心が揺らぐ一瞬だった。
引退の決断が揺らぐ理由はもう一つ。3人のよき後継者(常勤)が見つかったこと。若きサービス管理責任者が2人になったこと。軽度の利用者を対象に生活介護事業を開始すること。その新しい場所として西脇市総合文化センター(通称カルチャーセンター)に隣接するいい建物が交渉のテーブルに乗ったこと、などがあげられる。旧西脇高等学校、旧市役所の跡地は何人かのスタッフがその昔学んだところだし、緑に恵まれ、小高い童子山公園には桜が咲き、かつて西脇中の陸上部員がトレーニングに励んだ場所だけに、事務所内からあふれる緑を眺めながら昔の生徒たちや教職員の取り組みを記録するのも「いいものだろうな」と想像をめぐらしている。利用者さんには買い物や、運動不足解消に役立つ最適な場所となるだろう。
だが、書くことは難しい。能力が必要だ。この2カ月、苦闘の末に「そうか、テーマは一つに絞らないと書けないな」と初歩的なミスに気付く。しばらくは西脇市における織物の歴史(負の遺産も)や教育、スポーツの流れを勉強しようと思う。資料館は新事業所(今のところはあくまで予定)の前にある。今から、勉強勉強。
「草魂」の人
習志野 博
古希を過ぎて知人の訃報が増えた。1年前偶然出会った先輩は体調すぐれず、「次に会うのは神戸新聞の訃報欄や」と苦笑したが、そのとおりになった。T先輩は西脇高時代から投擲競技の国体選手として活躍した心優しい人だったが、77歳は早すぎる。
その日のこと。黄昏ときに堤を歩いていると60年前の情景が浮かんできた。室生犀星の小景異情(その二)とともに。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても
帰るところにあるまじや (略)
そういえば昔、子どもたちは何をするのも一緒だった。杉原川で泳ぎ、天神さんの境内で暗くなるまでソフトボールに熱中した。家々から夕餉の煙が上がるころ、いつもYさんがいうのだ。「さあ鏡汁を飲みに帰ろう」と。顔が映るほど薄い「おかいさん」が待っているぞと皆を笑わせた。YさんはわがM町少年野球チームの大エースだった。背が高くて腕も長い。ニグロ・リーグ出身で「野球史上最高の投手」と評されたサチェル・ペイジを彷彿とさせた。50年来会うこともない町内のかつての野球仲間は、都会の片隅で当時の「ふるさと」を想っているだろうか。
昭和20~30年代、繊維の街・西脇市は活気にあふれ、当時の経済を支えていた女子従業員(多くは故郷を離れての生活だった)の姿も多く、町全体に勢いが満ちていた。その経済力を背景に野球の分野でも活況を呈しており、当時西脇の野球には二つの流れがあった。
まず西脇中学校野球部の存在が際立つ。西中は昭和27、29、32年に東播地区大会に優勝して三度県大会に駒を進め、29年には県中央大会で飾磨中を破って初優勝を飾っている。「西中ナイン常勝軍の面目に輝く」。当時の西脇時報は大優勝旗を先頭に行進するナインと、大観衆に沸く旧西脇駅前通りの写真を掲載している。西脇中には戦前の全国中等学校優勝野球大会(現、夏の甲子園)の出場経験を持つF先生がいた。西脇市が生んだ後の300勝投手・鈴木啓示さん(元近鉄)は「F先生のもとで野球がしたかった」と悔やんだ。西中野球部は憧れのまぶしい存在として近在に君臨していたのだった。
一方では「町対抗少年野球大会」も盛況だった。「少年に夢を持たせたい」と、西脇時報社(当時)が主催して第一回大会が開催されたのは昭和26年のこと。「八月学校の夏休みの声を聞くと共にどの町にも少年野球の動きが始まる」と言われた。(後の部分は略:わが町のYさんと、のちの近鉄投手・鈴木啓示さんの邂逅などを書いていた)
古希野球、障害福祉事業、ライター修行と、まだまだやるべきことは多い。20日(火)は野球の練習日だが(三田市)、一日の休みをいただいて、少し疲労の蓄積した心身を解放してやろうと思う。それにしても日曜日の朝、書斎で読書や創作に向かうときの幸福感は何物にも代えがたい。ありがたき哉、71歳、初夏。
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