49年ぶりに聞く、「小山隆治」
昨年に続き今年も延期だとばかり思っていた。J大学昭和47年度卒の同窓会のこと。島根県松江市で催され、懇親会の翌日は「出雲全日本大学選抜駅伝競走大会」を参加者揃って母校を応援する企画。それがどうやら実施の方向だという。楽しみである。
同時期に開催予定だった還暦野球の全国大会(新潟市)が中止となった今、わたしは同窓会参加を予定しているが、となると、J大学2年生が走る東京五輪3000m障害だけはTV観戦する必要がある。その予選を録画で見た。大学2年生19歳の三浦龍司選手が8分09秒92の日本新記録で2位に入り、決勝進出を果たした。メダル候補の外国人選手に肉薄しての2位は価値ある快走だった。アナウンサーの声が流れる。「3000m障害でオリンピックの決勝に進出したのは過去ひとりだけです」。わたしは急いでテレビのボリュームを上げた。懐かしい名前が流れる。
「小山隆治さん以来、49年ぶりです」
1972年のミュンヘン五輪で小山隆治さん(当時、クラレ)が9位に入ったのが過去最高の成績だと、アナウンサーが言った。小山隆治の名を知っている人は少なくなっているだろうが、J大学の後輩、三浦選手の大活躍によって先輩・小山さんの名前が全国に響いたことが、わたしに深い感慨をもたらしたのだった。
3000m障害日本歴代6位(8’21”6)。ミュンヘンで9位(8'37"8)。1974年には8'21"6で世界ランク7位に顔を出し、1976年のモントリオール・オリンピックにも出場した小山さんは、1974年のアジア大会(テヘラン)で優勝を飾っている。アジアのチャンピオンだったのだ。学生の大会といわれる第6回ユニバーシアード・トリノ大会(1970)で3位入賞の実績もある。
三浦選手の決勝進出を受けて、JAAF(日本陸上競技連盟公式サイト)に次のような一文が掲載された。「五輪歴代最高順位の小山さんは、1972年ミュンヘン五輪で8位と0秒6差の9位。6位とは4秒3の差。今回の五輪参加標準記録8'22"00を47年も前にクリアしていたのだから恐れ入る」。本当に「恐れ入る」先輩だった。イチロー選手が年間最多安打を達成した際には84年前の記録保持者ジョージ・シスラーの名前が蘇ったが、今回は47年前の小山さんが蘇った。そしてもう一人、沢木啓祐。〃ミュンヘン五輪の5000m、10000mで日の丸をつけた日本長距離界のレジェンド、J大学陸上部総監督(名誉教授でもある)沢木先生の談話もネットに登場している。
「ハードリングは粗削りだったが、本当に潜在能力の高い選手だった」
その小山さんの訃報を知ったのは島根の住職F君の発行する同窓会報だった。彼の気持ちが表れた文章だった。「また・また・また 悲しいお知らせ : 小山隆治さんご逝去」。「また悲しいお知らせです。一年先輩の小山隆治さんんが亡くなったという連絡がK君からありました。大学時代に突然の目覚め。3000m障害に挑戦、卒業後はミュンヘン、モントリオール両オリンピックに参加。死因は急性心不全。9月10日(2018)のこと」。同窓会報には関東学生対抗戦で力走する小山さんと我々の同窓生、M君とF君が並走する写真が添えられてあった。
性格が悪かったり、成績を鼻にかけておごるような人物なら親しみも感じないが、小山さんは違った。謙虚で優しく、どちらかというとシャイな感じもあった。その先輩を思い出しながら「ミュンヘン五輪3000m障害 小山隆治」で検索するとレースのビデオが流れた。日の丸をつけた白いユニフォームで少し背中をまげて首を傾け、両手を前に大きく振る長身(日本人としては)の小山さんが走っている。なるほどハードリング姿は華麗とは言えないが「馬力」がある。
引退後の小山さんの人生については知らない。陸上競技の世界から離れて、静かに暮らしていたのかもしれない。しかし改めて、偉大な競技者であったと思う。小山さんをよみがえらせた三浦龍司選手の決勝の走りは見てみたい。私の唯一の東京オリンピック観戦だから。
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