「野球のまち」を創った人物(その1)

 兵庫県の中部に位置する人口約4万人の西脇市は、かつては織物で栄え、北播磨地域の中心地として栄えた町である。富の名残は「三井住友銀行」の支店が継続されていることでその一端がうかがわれるし、一般社団法人日本経済団体連合会(経済連)の十倉雅和会長はじめ各分野に多くの人材を生んでいる。経済が人物を生んだのか、人物が町の活気を形成したのかはわからない。プロ野球選手14名(坂部武美君調べ)も田舎町としては特筆される。

 野球に絞って考察すると、西脇市の野球文化発展の礎はどうしても「ある人物」に行きつく。少なくとも、わたしにはそう思える。神戸新聞の文化欄には日曜日ごとに「わが心の自叙伝」と題した連載がある。現在はデザイナーのコシノヒロコさん(芦屋市)が登場されているし、その前は加古川市出身の歌手・菅原洋一さんの自叙伝が掲載されていた。日曜日ごとに半年間にわたる連載である。

 そして、本年12月の第一日曜からは鈴木啓示さんが登場する予定だ。西脇市が生んだ元近鉄バファローズの投手、監督で、プロ通算317勝は歴代4位。野球殿堂と名球会の栄誉に輝く大投手。その「心の自叙伝」の準備が進んでいると聞いている。「ミスターバファローズ」に関する書物は多い。すでに書き尽くされた感もある。だが今回はちょっと趣が異なるのだ。現役引退後かなりの歳月を経て、少年野球(草魂カップ)や名球会野球教室、あるいは大リーグ研究家・今里 純先生(故人)顕彰活動への支援など、地域に貢献している鈴木啓示さんの姿が初めて描かれるのではないだろうか。

 「タケモトさん、鈴木さんからよく名前が出てくるF先生について何かご存じですか」。先日神戸新聞関係者からの問い合わせがきた。「F先生のいる学校で野球をしたかった」。鈴木さんの述懐はわたしも直接耳にしたことがある。「心の自叙伝」を彩るエピソードとしては先生を抜きに物語は進展しないだろうなあと思うのだが、野球部員でなかったわたしにはF先生の経歴や業績の断片しか理解できていないのが現状である。自分では多くを語らず目立つのも好まない人だと聞いている。「こりゃ困ったぞ」と頭を抱えるわたしである。

 F先生が顧問を務めた西脇中学校野球部は東播地区を制して、昭和27年、29年、32年とたて続けに県大会へ出場し、29年大会では部員9名で優勝を果たしたと「西脇時報」が報じている。旧西脇駅前は優勝の選手たちを迎える市民で立錐の余地なし(写真)。ここに「野球のまち・にしわき」の誕生を見る。F先生率いる西脇中は、以後も2年に1度は県大会に出場する県下の強豪校となった。

 着任早々結果を出せる人物とはいったいぜんたいどういう人なんだ?そんな人がなぜ西脇へ赴任されたのか?Fさんが教師になると聞いた鳥取農専(後の鳥取大学)時代の恩師・遠山教授がわざわざ西脇市へ激励にやってきたとのこと。「君にセンセイが務まるかなあ」。遠山先生は笑顔でF先生を励ました。「遠山正瑛(1906~2004)鳥取大学教授・名誉教授。日本の農学者で中国で2万ヘクタールの砂漠を緑化(植樹)に成功して生前に中国で銅像が建てられた唯一の人物(毛沢東を除いて)」だと、ウィキペディアは記している。

 大阪の名門、市岡中(後の市岡高校)から鳥取農専(後の鳥取大学)へ進んで野球にも秀でた才能を持つ若き日のF先生。遠藤教授に目をかけられ、西脇の歴史を創ったF先生。  新しいホームページのトップバッターをお願いするぞ」と決めていた。ホームページのトップには「Dodger Town」と、オーランド(フロリダ州)からベロビーチのドジャータウン(2004年当時)へ向かう車中から撮影した思い出のそれを挿入した。

 卒業後、農林省に勤務されたF先生は進駐軍の野球チームの一員としてアメリカ人のベースボールに親しく触れた経験を持つ。あるとき「彼らはとにかく楽しいからなあ」と言って、アメリカで野球をしたわたしを認めてくれたことがある。F先生とともに、わたしの新ホームページが船出となった。

シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

輝くシニア発掘~中高年に励ましを~

0コメント

  • 1000 / 1000