「野球のまち」を創った人物(その2)
その昔、荒巻 淳(さとし)(1926 - 71)は大リーグのボブ・フェラー(兵役4年を含め266勝の殿堂入投手)にちなんで「和製 火の玉投手」と呼ばれた。1985年に日本野球殿堂入りした名投手だった。大分商業時代1942年の全国中等学校野球大会に出場し、卒業後は大分経専(大分大学の前身)時代、1946年全国専門学校野球大会(現在の大学野球選手権と思われる)で優勝を果たしている。
決勝戦の鳥取農専(のちの鳥取大学)を相手に23三振を奪った。準優勝の鳥取農専には荒巻投手と並ぶ快速球投手・山根俊英がいた。その山根投手とバッテリーを組んでいたのが、西脇市に本格的な野球の芽を根づかせたF先生その人だった(外野手だったという説もあるらしい)。「F捕手が初めてバットに触れてキャッチャーフライを打ったときは味方ベンチから拍手が湧いた」とされる決勝戦の一コマ。このときの23奪三振で注目された荒巻投手は勧誘合戦の末「星野組」へ入団し、1949年(わたしが生まれた年)の都市対抗野球で優勝に貢献、橋戸賞を受賞した。そして1950年、毎日オリオンズに入団。子ども心に記憶しているのは眼鏡をかけた細身の左腕投手。パッチン遊びの昔のプロマイドを覚えている。
荒巻投手は入団の年、26勝8敗で新人賞を獲得。以後1959年まで7年連続で15勝以上を挙げている。1953年の日米野球では日本人投手として初めての完投勝利を達成するなど、短い現役生活だったが一流投手として活躍し、173勝107敗の成績でもって引退した。荒巻投手が毎日オリオンズへ入団したときの監督(選手兼任)が西本幸雄さんだった。のちに西脇市が生んだ317勝投手の鈴木啓示さんが師と慕う西本さんだったことは何かの縁を感じる事柄である。
荒巻投手と双璧と称された山根俊英さんもプロ野球で活躍するのだが、西脇市をたびたび訪れたエピソードとともに、F先生の述懐を含めて次回に紹介したいと思う。
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