「野球のまちを創った人(その3)
西脇中学校野球部の県大会初優勝メンバーの一人に、のちに立教大学、ヤクルト・スワローズ(国鉄時代もある)で活躍した丸山 完二さん(1940年生)がいる。西脇高校から立教大学へ進んだ丸山選手は1,2年時に三度の優勝を経験し、3年生では東京六大学の首位打者を獲得した。0.365の成績だった。小学5年生だったわたしが親戚宅のラジオに聞き入っていたら、実況アナウンサーが打席に立つ丸山選手の言葉を伝えていた。「もうわたしの高校からは六大学へ来る選手が出ないのじゃないか」、丸山さんがそう発言するほど、西脇高校は野球では無名の学校だった。
丸山さんは10年間の現役を終えた後、ヤクルト・スワロ-ズでヘッドコーチやフロント編成部長などを歴任し、30年以上球団に所属した。「丸山会のゴルフ・コンペの顔ぶれはすごいものだよ」とF先生から聞いたことがある。ある夏のこと、「丸山が三田市に来ているから」と先生に誘われて東京神宮シニア(中学生硬式野球)の三塁側ベンチを訪問した。三田キッピースタジアムだった。ツーショットを撮った。そこには変わらぬ師弟の心の交流がみられ、「丸山はユニフォームを着ると若いなあ」とF先生がほほ笑んだ。
だが、丸山さんの予想は外れ、5歳年下の藤原 真(まこと)投手が西脇高校から慶応大学のエースとなって、同じくプロ野球の世界へ進んだ。「真はスケールが大きい男だ」(F先生)。1967春季リーグ戦で優勝、大学通算22勝19敗。帰省の際、彼は慶応のユニフォーム姿で高校の後輩たちに打撃投手を買って出て、「すごい球だった」と当時高校生だった人たちが述懐する。「吉永小百合の結婚式に招待を受けたそうだ」とは後輩たちの自慢話。
その藤原投手が1969年にサンケイ・アトムズ(当時)に入団して9勝8敗の成績を収めた年のピッチング・コーチが山根俊英さんだった。鳥取農専(後の鳥取大学)時代のF先生の同僚。自分の教え子がプロへ入り、そのコーチが昔の仲間。先生は幸せな気分だったことだろう。「山根は西脇へきてマージャンを楽しんだが、そのときに真(まこと)のことをいってたなあ」、先生は懐かしそうに眼を閉じた。「おい藤原、今日はいけるか?そう聞くと、大丈夫です、いけますって返事するから投げさせたらポカスカ打たれおって」と山根さんが苦笑したとか。「山根は台湾で国賓あつかいだった。えらいやつだ」。1993,94年、山根監督は台湾でチームを優勝させて「山根マジック」と称賛された。
それにしても丸山さん、藤原さんはいずれも一般入試で大学へ入り、そこで実績を残した。甲子園出場校への進学を求めてボーイズ、シニアと硬式野球クラブを模索する昨今の中学生と保護者を見るにつけ、当時の西脇野球界の品格を見る思いがする。誰に指導を受けるか、どのような理念のもとにスポーツ活動を展開するかでその後の人生は変わる。
戦後の農林省には食糧庁が存在し東京に本部があった。大阪支所に勤務したF先生は九州や中国・四国地方などへ出張していた。「進駐軍がわれわれを先導してくれて、それはすごかった」とは先生の述懐である。食糧難の時代に進駐軍が関係する機関には物はたっぷりとあって、高級ワインなども飲み放題だった。つい帰りがけに失敬するワルい人間も出る。「進駐軍の連中はそんなとき、君は盗んだろうとは言わないで、明日から来なくていいよと言い渡した」。「残ったのは2,3人だったな」とのこと。もちろん信頼されていたF先生は進駐軍が結成した野球チームへの参加を求められ、各地を転戦する。
朝職場へ行くと電話がかかる。「へい!遊ぶぞ」と。「彼らにとってはプレイ、つまり野球は遊びなんだよ」。こうして広い世界と高水準の野球を体験してきた先生は田舎の教員生活で随分とカルチャーの違いを感じたのではないだろうか。しかし、先生のまいた種は西脇市で、日本中で、見事に花を咲かせた。
日米野球の研究家として膨大な資料を遺された故・今里 純先生は丸山 完二、鈴木 啓示の両氏とも親交があった。昨日、中学生の野球を盛り上げてくれた神戸審判倶楽部の福井 宏さん(元セ・リーグ審判副部長)は台湾での技術指導時代、山根さんと出会っているし、甲子園球場で「今里さんとは何度も話をしたよ」と大きな声で教えてくれた。
高齢となった現在も、宗教書、小説など書棚の本をめくっているF先生に会うと、年下のわたしが元気をもらって帰ってくるから不思議である。「存在が人を導く」。もっと早い時期に多くの歴史を聞いておくべきだったとちょっぴり悔やんではいるが、「野球のまち・にしわきを創った人」にはまだまだ教えてほしいと願っているのである。
0コメント