震災復興野球の仕掛人(1)
9月19(日)、25(土)の両日「神戸審判倶楽部」を率いて第1回エコボール杯(西脇市・再生球による中学生硬式野球大会)を盛り上げてくれたのが45年にわたる球友・水門輝一(すいもん きいち)さんだった。小柄な体で試合準備や審判の割り振りに奮闘する姿はまさに「野球の虫」。駆け引きのないまっすぐな性格で情熱の人。わたしは半世紀近く、水門さんのどこに惹かれてつきあってきたのだろう。今回も元気な中高年を紹介したい。
衆議院選挙が告示された。一部には「政権党vs野党連合」と報道されているが、一致点で協力し、互いの違いを認め合う「連合」の思想は45年前にすでに水門さんが実践されていた。阪神淡路大震災が起きたのは1995年1月17日未明だった。多くの犠牲者を出しライフラインも壊滅状態だった2月12日ころ、神戸ではやっと電話がつながり鉄道も一部で運行が開始されたが、水道、ガスの復旧はまだ目途がたたず、スポーツ関係者も次々に入る死亡、全壊、全焼の連絡に打ちのめされていた。
1976年に新日本体育連盟野球協議会(以下、新体連)を結成して中心的役割を果たしていた水門さんは、全国から贈られた500万円を超えるカンパに涙した。そんなとき、震災によってほぼ壊滅状態だった長田区のチーム「Nヤンキース」からT事務局長に電話が入る。「こんなときなんですが、みんなで野球がしたいんですわ、それくらいの希望がないとやっていけません」。
「ほんまかいや?」と水門さんたち役員の声。家は焼けてるし、第一道具がないやないか。続いて「こんなひどいときに野球すると笑われるで」と皆の意見。しかしよく聞けばグラブやバット、ユニフォームも持ち出していた。なかにはお金を持たずに野球道具を持ち出した人もいたという。野球どころではない避難所生活の中で「こんな生活がいつまで続くのか」と不安を感じ、「無性に仲間と野球がしたい」と長田区の人たちは思った。水門さんたちはこの叫びに応えていった。
「大震災に負けてたまるか」、2月19日に新体連兵庫野球協は臨時総会を開き、震災40日後の2月26日にリーグ戦を開始。病を押してリーグ戦再開に奮闘したT事務局長はしばらくしてかえらぬ人となった。新体連は「うちだけ野球やったらうらまれるでぇ」と、さらなる案内文を各連盟の役員に送付した。「生活が大変だけど、野球ができてこそ本当の復興といえる。みなさん、このままでは神戸の軟式野球は終わってしまう。組織の枠を超えてみんなでどんな苦労もいっしょにしようではありませんか」。こうして3月12日、明石第一球場で「ガンバレ!野球愛好者の集い」が開催されて、「連盟の枠」を超えた団体、個人、家族連れが震災後初めて顔を合わせた。
「野球愛好者の集い」にはプロ野球OB会から連帯のメッセージが届いた。「大震災に負けず、一日も早い復興をめざして、大人から子どもまで老若男女すべての住民が手を取り合って、一歩一歩一日一日をがんばってください(略)大会の成功を心より祈っています。日本プロ野球OBクラブ 事務局長 江本 猛紀」
自分たちだけでなく、野球愛好者みんなが「本当の復興」を果たそうとする姿勢。困難を乗り越えながら組織の枠を超えて協力するという全国に例をみない取り組み、考え。それが水門さんとわたしの共鳴を生み出したように思える。3月12日の「復興会議」は次のことを決定し、発表した。例年、新体連単独で行っていた全国スポーツ祭典を神戸市の10団体の実行委員会形式で開催し、優勝チームは秋に開催されるプロ野球OB会共催の「ケーブルテレビ局主催ワールドベースボールセッション′95」(甲子園球場)の出場権を得る、と。
わたしの所属していた社会人軟式野球「日野クラブ」はこの予選に参加することとなった。すべては「野球の虫」水門さんの「協力、共同」精神が創り上げた「復興へののろし」だった。次回は甲子園球場と、水門さんの野球人生をたどってみようと思う。
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