公平、平等「震災復興野球の仕掛人(2)

 西脇市議会議員選挙の結果が判明した。ひとり落選の人は体調不良もあったとか。落選により心身の健康に不安が生じないよう願う次第である。当選者には大いに期待する。私利私欲、名誉感など持たずに市民、地域のために力を尽くしてほしい。ただ、当選された議員は「自分の票にならない」人や団体にも等しく心配りができる人であってほしいと思う。その点で水門輝一さんの実践は大いに参考となる。

 1995年大震災の年、水門さんたち新体連兵庫野球協は自分たちが例年実施しているスポーツ祭典を実行委員会形式にして「オール神戸」で取り組んだ。関係者全員に復興への熱い願いがこもっていた故の決断。こうして5月21日を皮切りにチーム数145、総試合数99ゲームのロングラン予選が始まった。関係者はなぜ神戸地区の代表を甲子園球場へ送らなかったのだろう?震災の年だ、みんなが納得するはずなのに。震災後のグランド確保には困難が伴い、役員やその家族は早朝から三木市、吉川町・東条町・加東郡(いずれも当時)へ走った。そうした苦労の上に実施されたスポーツ祭典は、神戸地区、阪神地区、そして東・西播地区の予選を勝ち抜いた4チームに県大会出場の権利を与えてくれたのだった。

 1995年9月15日、敬老の日の明石第一球場(現明石トーカロ球場)。この場所でわたしたち「日野クラブ」(西脇市)は劇的な逆転で甲子園球場への切符を獲得したのだった。S監督のリーダーシップ、大学で活躍したF遊撃手の同点打、軟式の天皇杯優勝投手だった後輩のT投手など、あの頃の仲間の姿は今も記憶に鮮明である。運営関係者への感謝も忘れられない。予選から11月29日の甲子園までのストーリーは拙著「神戸から軟式野球の灯を消すな」(OFFICE「希望」刊)に詳細を記したのでここでは省略する。神戸市野球関係者の広い心に包まれた1995年だった。

 いつでも どこでも 誰もがスポーツを! スポーツ君が主人公!

 当時は市民権のなかった水門さんたちのスローガンは、今では広く使用されるようになった。彼は1991,93,98年の三度アメリカへわたり、「ジム・エバンス審判学校」でメジャー式の科学的で現実的なアンパイアメカニックを学んで連盟に導入していった(日本初)。富澤宏哉氏(元セ・リーグ審判部長)の誘いによる渡米だった。当初は「アメリカかぶれ」と批判を浴びたが現在ではどの団体、連盟も2人制を基本にした方法になっているらしい。みなさんも塁審が「ヒー・ズ・アウト」(He's out!)とコールする場面に出会ったことと思う。ここでも彼は実践的な孤高の先駆者だった。

 小学生時代は三角ベースの野球に親しみ、中学では柔道部に。神港高校(硬式野球は甲子園出場の強豪校)で再び軟式野球部員となった。元甲子園球児でもなく、大学・社会人野球の経験者でもない水門さんは現在、神戸審判倶楽部事務局として、各種大会や少年野球、神戸市の中学生などを対象に野球の底辺拡大に奔走している。こういう人たちが日本の野球界を支えているのかもしれない。79歳と6カ月の審判はわたしの前でこういった。「いつまでも向上心と発展性を持ち続けたいね」。

 母親の故郷であり、疎開先でもあった淡路島は水門さんの疲れを癒す場所。「週に1,2回は夜釣りに行きますよ。淡路の西側がいいね。これからはチヌ、メバル、グレでしょうな」、そういったあと、彼はわたしのNPO理事長辞任の話を受けて言葉をつづけた。「そう、やりすぎないこと、後継者がまだ慣れていないからといつまでも手伝っていたら、よしと思ってやったことでもやがて反発を受けることもある。竹本さん、引き際が、ね」と。

 水門さんが影響を受けた人たちには記述が及ばなかったが、それは次回に回すとして、年が明けたらわたしにも自由な時間ができるだろうから、夜釣りに同行する機会があるかもしれないし、野球の現場に足を運んで語り合うのもいい。「向上心と発展性」、わたしもそうありたいと思う、和やかなインタビューとなった。 

シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

輝くシニア発掘~中高年に励ましを~

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