「情が移る」9年の歩み

 12月4日(土)、プロ通算317勝を誇る鈴木啓示さん(元近鉄投手、監督)のふるさと、西脇市で開催されていた「第9回鈴木啓示 草魂カップ少年軟式野球大会」が地元「ワィルドキッズ」の優勝で幕を閉じた。好天にも恵まれて当の鈴木さんは3日間とも西宮からはせ参じてくれた。もう9年が経過したのだ。

 午後4時、西脇ロイヤル・ホテルのロビーで鈴木さんは「情が移ってしまって、坂部さん、竹本さんと別れるときはつらいですわ」といった。心なしか両目が充血されていた。わたしも同じ思いを抱いて別れの挨拶をさせてもらった。昨年「年に一度の出会いはさみしいから」と春のゴルフを約束して、それはこの4月に実現していた。年毎に互いの心がつながりを深くしているようだ。

 わたしたちはなぜ「草魂カップ」を大切にするのか。それは西脇市が生んだ通算勝利数歴代4位の殿堂入り投手に対する当然の礼儀だというのが第一。彼は球界のレジェンドである。昨年は福島県、今年は岡山県倉敷市、京都府亀岡市からサインを求めてファンが西脇を訪れた。大会参加の県下32チームの学童、保護者も鈴木さんとの出会いを待ち望んでいる。中でも孫を応援する祖父母の世代が恥ずかしそうに写真を依頼する。2年前の第7回大会開会式で鈴木さんは新人のとき金田正一投手にカーブの投げ方を尋ね、「ここは学校の部活動じゃないぞ、教えてほしかったらゼニをもってこい」と突き放されたエピソードを語った。今年は「世界の王さん、868本塁打の王さんと話したら、現役時代は不安で仕方なかった、だから練習をした、練習しているときだけが安心できた、あの王さんがわたしと同じだった」と披露された。第7回大会から鈴木さんと選手、保護者、関係者との距離が一段と縮まったように思う。

 二つ目の理由は、鈴木さんと居ると昭和35~37年の自分に戻っていて、それがとても愉しい気分なのだ。戦後すぐの昭和25年西脇時報社が町対抗少年野球大会を立ち上げた。「少年に夢を持たせたい」と。西脇市の子どもたちは熱中したものだ。夏休みは野球の季節。鈴木さんは野村町のエースとして小学生時代からマウンドに上っている。この少年野球大会は10年間で延べ226チーム、3,200人の子どもたちを育てていった。全国から40人が応募して生まれた当時の「少年野球賛歌」は ♪ 雲湧きあがる 西脇の(1番) しぶき玉散る 加古川の(2番) 播磨の山河 雲晴れて(3番) ♪ と謳っている。鈴木さんの名を冠した草魂カップは本年で4,000人を超す子どもたちが大会から巣立った。「町の大人たちが冷えたスイカを食べさせてくれるから、それがうれしくて野球してましたよ」と、大投手は今も懐かしむ。ここが鈴木さんの原点となっている。

 昭和30年代の西脇市には1,000名近い女工さんがいて(集団就職も在った)、その人権や生活向上から「女子従業員」となるべく必死に生きていた。当時の「西脇時報」花壇欄の詩。「ラジオにて わが故郷の 名を聞けば なつかしく思う 窓によりつつ」。悲喜こもごもの織物の町、そして少年野球の町。「鈴木啓示 草魂カップ少年軟式野球大会」は今、街の歴史を受け継いで少年たちに夢を運んでいる。

 来年は10周年記念大会を迎える。

シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

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