山崎豊子「二つの祖国」

 ロサンゼルスの孫(女の子)が満一歳を過ぎて、ママ、ダドから「じーじー、ばーばー」など言葉を話し始めた。小走りに歩くこともできる。4月28日には名古屋の長男に第一子(男の子)が誕生した。元気に育っている。独身の次男は都内目黒区から富士山が見える神奈川県茅ケ崎市へ引っ越した。そんなわけでこの5月連休は読書に没頭した。

 わたしの出生は戦争につながる。昭和19年11月4日モロタイ島、20年6月にフィリピンのルソン島で兄弟が戦死した。ともに二十歳代。自慢の息子ふたりを失くした祖母は姪を養女にして婿をもらい、昭和24年にわたしが生まれた。そんな我が家にアメリカ国籍を持つ子孫が出来て、戦死者の石碑の下で兄弟は驚いていることだろう。

 今秋アリゾナで開催予定の全米野球大会(ハイレベルな年齢別大会)に誘ってくれる友人はサンタモニカで歯科医院を経営する日系三世のB・Sさん。彼とリトルトーキョー(LA)を散策し、日系人博物館を見学した日もある。ハワイには同じく野球仲間日系三世のN・Fさんもいる。わたしが連休の読書として山崎豊子の小説「二つの祖国」(新潮文庫全四巻)に出会うのは必然だったかもしれない。

 小説では戦争に翻弄される日系人家族の苦悩の歴史が語られる。移民として30年から40年、働きづめでやっとリトルトーキョーに安息の地を見出した人たちが日本軍のパールハーバー襲撃から運命が一変する。ルーズベルトによる「大統領令九〇六六号」署名により全米各地の日系人が強制収容されていった。小説の舞台はロサンゼルスから北へ約350キロに位置するマンザナール(マンザナともいう)強制収容所。テキサス大隊救出のためにヨーロッパで約600人もの戦死者を出した日系人442部隊の様子も絡めながら山崎豊子は綿密な調査を背景に戦中戦後の日系人の歴史をあぶりだす。

 ミネソタには日本軍の暗号解読や投降を呼びかけるための日系人を対象とした日本語学校があった。新婚夫婦が湖のほとりを散策する場面があって、湖の名はミネトンカ。ミネトンカはわたしがはじめてアメリカの大リーグを観戦した1990年の夏に訪れた場所である。わたしがパンチョ伊東(当時パ・リーグ広報部長)と記念写真を撮った場所だ。「ミネトンカのハイスクルールはチアガール発祥の地だよ」とパンチョがわたしに言った。

 ニューギニア北西のモロタイ島では日本軍への投降を呼びかけた日系人語学兵が丸腰で説得中に狙撃されて二名の戦死者を出す場面が登場する。モロタイ島は先祖が命を失った激戦地である。4日間で四巻を読了した日の夕方、わたしはランニングに出た。還暦野球、古希野球選手として現役投手を全うするためにはランニングは欠かせない。戦死者の碑に手を合わせ、名古屋の孫誕生を報告しようと杉原川の畔を北へ向かった。

 堤防の若葉萌える景色はすばらしい。誰も通らない道を走りながらハッと閃いた。今まで全くうかばなかった想いが浮かんだ。「戦死した兄弟は激戦の陣地で、あるいは死の間際に、母の顔を思い浮かべ名を呼び、そして故郷のこの川べりの風景を懐かしんだのではないか」と。

 70年後、わたしはその堤を走っている。シュガーやベル(ともに亡くなった愛犬)と10年以上にわたって散歩した道を辿っている。戦死した彼らが泳いだであろう川を横にみて昔変わらぬ風景の中をわたしは走っている。わたしのランニングは孤独な営みではなかった。「二つの祖国」は家族の歴史、国の在り方を考えさせてくれた。

 5月3日は憲法記念日。憲法9条を守れ、いや改憲だ、戦争する国にするな、日本を守るために軍隊保持を明記する。世論は分かれるが、戦争による悲劇によって生を受けたわたしには確固とした意見がある。それは家族の未来を守り、スポーツの発展につながる道である。山崎豊子「二つの祖国」はズシンと胸に応える小説だった。いい連休が過ごせた。

シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

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