アイク生原の墓参り
神戸・元町の商店街にホットケーキの美味い喫茶店がある。その名は「サントス」。古いつくりだが店内はいつも満席。5月27日、店の二階席で森 茂仁は鞄からボールを取り出した。アイク生原の写真入りサインボールだった。彼はつい先日、ロサンゼルスから帰国したばかりだった。
アイク生原(1937~1992)はロサンゼルス・ドジャーズのピーター・オマリー会長補佐、国際担当として活躍し、亡くなるまでドジャーズのために懸命に働き、日本球界にも多大な貢献をした立志伝中の人物である。早稲田ーリッカーミシンと現役を続け、亜細亜大学の監督として7シーズンでチームを3部から1部へと昇格させた。その後、妻子を妻の実家に預けた生原は鈴木惣太郎氏の紹介状(アイクの愛称ももらった)を胸に単身渡米。ドジャーズの会長ウォルター・オマリーの息子ピーターとともに1Aで修行をスタートさせた。詳細は省くが、言葉もわからず靴磨きや迫害の中で早朝4時から遅くまで働くなど辛酸をなめた。
1968(昭和43)年、18歳だった森 茂仁は会社(川崎航空機)からの帰途に立ち寄った書店で「週刊ベースボール」を手に取った。高校の野球部出身だった彼は漠然と野球にかかわる仕事を夢見ていたのかも知れない。そこに飛び込んできた「海を渡った野球の虫」の記事。アイク生原の物語だった。
そのときから10年、季節工員としてコツコツ資金を蓄えた彼は1978(昭和53)年の4月、28歳でロサンゼルスへ飛び立つ。何の当てもないのに、である。当時は安くて長期に滞在できる日本人向けの下宿「ボーディングハウス」があって、そこに滞在しながらアイク生原に手紙を書き続けた。半年後、アイク生原から電話があり、森はドジャースタジアム最上階のオフィスへ入った。
「昔と違って今はドジャースに森さんの働き場はありません」。うなだれる森にアイクは英語の勉強を兼ねてドジャースのキャンプ地ベロビーチへ行くことを薦めた。森はその後、車でアメリカの西海岸から東のフロリダまで走り、ホームステイをしながら読売ジャイアンツ選手の通訳などをした。広岡達朗(元ヤクルト、西武監督)の知遇を得たのはその時期だった。
とまあ、アイク生原と森の物語を書き出せば話は尽きない。帰国後も夢に見た野球界での仕事は実現せず、いわば不遇な(?)人生を送った67歳は今も青春の思い出と共に生きていて、先般ロサンゼルスのホーリークロスの丘にあるアイクとピーターの墓前に花を添えてきたという次第である。初めてお家を訪問してご婦人から歓待を受けている。
バターと小倉の甘いホットケーキをほおばりながら森 茂仁は、サンディエゴ行のバスで右往左往した失敗談を楽しそうに語ってくれた。アイクの存在が今も彼の人生を救っていると、わたしは思った。
今、日本の若者の留学志向は減少し、内向きの人間が増加していると聞く。2011年の日本人留学生は57,501人。同年の韓国(人口は日本の約半分)は262,465人。2012~13のアメリカ留学者は日本が19,568人で、五分の一の人口台湾は21,867人(ウェブマガジン留学交流2014,7月号)。
「サントス」の二階でホットケーキを食べるわたしたちはともに67歳、同学年である。戦後の日米野球界の橋渡し役を務めた西脇市在住の故・今里 純特別野球展で知り合った二人は神戸大丸の前で別れ際に言うのだった。「いつかいっしょにドジャースタジアムへ行きましょう!」と。
アイク生原の娘さんの主人とわたしの娘婿は友人である。わたしがホーリークロスの丘を訪れる日は近いかも知れない。歩き去る少しまるくなった森の背中を眺めながら、若い日の夢はそれが野球に関するものならなおさら、いくつになっても輝きを失わないものだと想った。(文中の敬称略)
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