いざ、アリゾナ へ
サンタモニカ(カリフォルニア)からメールが届いた。
「Dear Takeshi, How are you?」。現地で歯科医院を開業している日系三世のBradley Seto さんからだった。彼は約束を忘れていなかった。彼の連絡内容は概ね次のような内容である。
元気か?野球はやっているか?MSBL(Men's Senior Baseball League)のオーバー60ワールドシリーズトーナメントは10月30日~11月4日で、木製バットを使用する。われわれは4日間に6試合を行う。君の都合はどうか?
1年前のファーザーズ・デイ(父の日)にドジャースタジアムの三塁側最前列席で、「一緒に行こう」と約束していた。「マネージャー(監督)は君の旅行の割にプレーチャンスは保障できないかもしれないと言っている」というのだ。もとよりアメリカ人とメサ(アリゾナ)の青空と美しいスタジアムでベースボールを楽しめればいいと考えているわたしは、ノープロブレム(問題ないよ)と返信した。
優しい彼はつけ加えるのを忘れない。続けてこう言うのだ。「しかしわたしは常に君のピッチングがチームにとって必要であり、非常に貴重な選手に(打撃も)なるでしょう」と。彼とはベロビーチで一度、ロサンゼルスで二度プレーを共にしている。うれしい評価である。
直接フェニックスへ飛ぶのか?またロサンゼルスに戻るのか? 飛行機か車か?すべては彼に任せようと思う。とにかくこれでわたしの夢、アリゾナで野球をする夢がグンと現実味を帯びてきた。
日本の草野球しか経験のない自分が、ベロビーチやロサンゼルス、はたまたアリゾナで野球をするなんてかつては想像もできなかったことだ。アメリカ野球の初体験は1999年のサンディエゴだった。留学中だった長女が地元メディアに依頼して実現したナイトゲームは高校のグラウンドで行われた。50歳の夏のこと。
「SD・Tides」の代表Doug Johnsonはチームメイトにわたしを紹介し、スターターとして1回表のマウンドへ送り出してくれた。ガムを噛め、リラックスしろ、あと1イニング行けるか、肩は大丈夫か、と彼らはやさしかった。メキシコ人のステップナーは陽気な男で、黒人のジョンソン代表は日本人に親切だった。そのときの模様は雑誌に掲載された。「Fall 1999」の「HardBall」31ページに写真と記事がある。
San Diego-Japan Exchange Programと題した記事には、Takemotoが5種類の球を低めに投げてヒットしにくかった。3イングをゼロ封した。Cal State San Marcosで学ぶ彼の娘Yokoがアレンジメントした、と書かれている。このときにわたしはアメリカで野球をする醍醐味にとりつかれたといえる。今秋18年のときを経て再びMSBLの大会に参加する自分がいる。
ありがとうSetoさん、君のメールを読んだときから体中にエネルギーが湧いてくる。野球、夢、旅、そしてアメリカ。宿泊するアリゾナ州メサのハイアットプレイスは快適だろうな。ウキウキする姿と、英語が出来ない不安げなわが身を想像しながら10月を迎えようと思う。
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