名捕手よ、安らかに

 野球の仲間がまたひとり逝った。訃報を聞いて6月28日(水)、北六甲のメモリアルホールへ車を走らせた。還暦野球、古希野球三田プリンスの仲間が24人お通夜の席に居た。彼はみんなに好かれた人物だった。

 9年前、59歳のわたしは還暦野球に参加して三田谷公園野球場のグラウンドへ入った。真っ先にキャッチボールの相手を引き受けてくれたのがKさんだった。「このボール、ツルツルなんですが」。そう言うとKさん、自分の帽子を脱いで地面にたたきつけるしぐさをした。頭髪が薄かった。

 投手をながくやっていると投げやすい捕手とそうでない人との見分けがつく。自分の主張をグイグイ押し出す捕手は苦手だが(自分と似ているから?)試合になると呼吸を合わせていく。それだけに試合前の練習では気持ちよく投げられる捕手がいい。シュートがすっぽ抜けても、カーブがワンバウンドしても気を遣わなくて済む捕手。新しい球種に気楽にチャレンジできる捕手。Kさんはそんな捕手だった。キャッチングも上手かった。実質7年でKさんとわたしはどれだけの球数を交歓してきただろうか。

 彼は言っていた。「オレはアンタの球を受けるのが生きがいなんや」。わたしも励まされたものだ。「女房を大事にせんとあかんで。死なれたら寂しい。女房が亡くなってなんにもする気がなくボーとしていたときに還暦野球に誘われて、な、それで助かったんや」。

 通夜の最後に息子さんがいい挨拶をした。「オヤジは野球と酒と阪神タイガースが好きでした。おかしいとは思いましたが、棺の父親には三田プリンスのユニフォームを着せました。喜んでいると思います。人の悪口は一切言わない、他人を押しのけるのが大嫌いな父からは、人生の一番大事なものを学んだように思います」。

 棺の隣にはKさんが愛した缶ビールとともに、キャッチャーミットとスパイクが静かに置かれていた。弟さんの許可を得てわたしはKさんのミットに左手を入れた。わたしのボールを7年間、受け続けてくれたミットは少し湿って温かかった。来年まで生きてくれていたら、再び投球練習をすることも出来たのに、Kさん。

 古希野球の三田プリンスでは、捕手のSさんが大学病院で手術をし、外野手のMさんは庭木の剪定中に梯子から落ちて頭部と腰を強打、Mさんは奥さんの体調が芳しくなく不参加。そこへ来シーズンからは若手?二名が加入する。その翌年はわたしも加入する予定だ。誰かが言う。「竹本、来年からは練習生として第2試合に出場できる。登録しとくからな」と。

 7年間ともに野球をした人たちと別れて中国道を走りながら想った。互いの人生の最後の輝きを共有するもの、それが古希野球なのだ。自分の人生にも限りがある。とすれば古希野球のチームをどこにするかは野球人生最後の決断ではないのか。わたしが再び三田市でプレーすることが叶うなら、それはきっとKさんが呼び寄せてくれたプレゼントなのだろう。

 6月4日に奥さんの17回忌を終えたばかりで、亡くなる4日前の練習にも姿を見せたというKさんの顔は性格そのままに穏やかだった。草野球投手歴40年のわたしは思う。「彼は名捕手」だった。やわらかく受け止めて、ピッチャーを気持ちよく投げさせる名人だった。

 名捕手よ、安らかに。Kさん、ありがとうございました。

 

シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

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