社高校体育科一期生
7月28日(金)の夜、兵庫県柏原町の喫茶「りぼん」で同窓会が開かれた。社高校体育科一期生48名中9名が参加。夙川高校の女子4×100mリレーで全国優勝を目指すI君はインターハイの会場山形にいて不参加。参加者の内訳は元教師が7名(内、校長経験者は4名)。自営業(つまり社長・経営者)が2名。入院中の同級生もいて少数の参加だったが、あらためて体育科の絆の強さを実感した一夜だった。
駅伝の名門・西脇工業高校を率いて8度の全国優勝を成し遂げた渡辺公二先生の参加もいただき、思い出話に花が咲いた。もうあれから50年が経過した。
1964(昭和39)年10月10日に開幕した東京オリンピックに胸震わせた中学生はたくさんいた。男子百メートル走で10"00は「褐色の弾丸」ボブ・ヘイズ(米国)。マラソン2連覇のアベベ・ビキラ(エチオピア)。日本の円谷幸吉がマラソンで銅メダル。レスリング、体操競技でのメダルラッシュに重量挙げの三宅義信。「東洋の魔女」女子バレーボールの金メダルなど、日本中がオリンピック中継に熱中した。
東京五輪の余熱冷めやらぬ1965年1月、神戸新聞に「社高校に体育科設置」が発表される。「ええ、毎日体操服で生活できるの?」 「体育教師への道が近い?」 テレビの青春ドラマに影響された者たちは体育科進学を決意する。スポーツを愛する仲間とともに生活したいといった単純な動機で入学した者もいたはずだ。
待っていたのは文化のギャップ。県下全域から入学すると神戸、有馬、加古川など都会育ちの同級生に面食らうこともある。考え方が違う。全員個性が強い。各中学校で「お山の大将」だったから個性の摩擦も起こる。そこへ寮生活に部活動。ストレスもたまる。そんなヤンチャ連中をまとめあげたのが担任の故石井一先生であり、体育科の渡辺先生や岡田先生だった。
社高校は全国で3番目に設置された体育科だった。わたしのスポーツ人生はここから本格的な道に入った。人生の基礎をつくってくれた同級生たち。今回再認識したのは、1期生の誰一人として「学業成績」で人間を評価しない点で一致していることだった。「オレは成績悪かった」と笑顔で公言する元校長もいるくらいだ。しかし人間味がある。みんな見栄や体裁、名刺の肩書きとは無縁の裸の人間性を持っている。
渡辺先生は新任の福島商業高校(大阪、現履正社高校)から兵庫県の社高校へ来ることになったきっかけや西脇工業高校での苦労話を披露されていた。世羅高校など駅伝名門と言われる高校は複数の監督によって全国優勝を成し遂げているが、単独で8度の優勝を獲得したのは渡辺先生だけだと思う。すばらしい指導者と同級生に巡り合えた高校時代。
元校長のひとりが翌日メールを打ってきた。「昨夜は楽しい時間ありがとうございました。やっぱり体育科出身はエエ人ばかり、特に一回生は一番や!これからもよろしくお願いします」。お願いするのはこっちやで。古希近い年齢になって1期生のありがたみが沁みてくる。
篠山市で校長を務めたS君は「知らんかったわ。物故者が5名もいたなんて」とびっくりしていた。おれたちはもうそんな年齢に差し掛かったのだ。来年はもっと賑やかな同窓会になることを願って皆と別れた。
0コメント