プロ野球と文学
9月17日、プロ野球のソフトバンク・ホークスがパ・リーグ優勝を決めた。ホークスの工藤監督が目をうるませてインタビューに応える映像を見ながら一抹のさみしさを感じた。工藤監督の1年を、あるいはセントラル・リーグ優勝まであと1勝と迫った広島カープの歩みを、誰が文学雑誌に投稿するのだろうか、と。
ホークス優勝の夜、本棚から古い雑誌を取り出した。「小説新潮 1982年1月号」。そこには特別ドキュメントが掲載されている。「広岡達朗の七九0日」。作者は故・海老沢泰久。海老沢泰久といえば1979(昭和54)年に新潮社から刊行した「監督」でも有名である。弱小ヤクルト・スワローズを初優勝に導いた広岡達朗をモデルにしたフィクションである。野球人広岡達朗の存在が直木賞作家の創造力をかきたてたといわれる。
「広岡達朗の七九0日」は池袋のサンシャイン60ビルの54階から始まる。「根本陸夫は(略)西武ライオンズの球団事務所で、コーヒーを飲みながら記者会見の時間が来るのを待っていた」。この日は3年間でライオンズの基礎をつくった根本が監督の座を広岡にバトンタッチするための記者会見の場だった。ヤクルト退団後2年を経て、愛するジャイアンツに別れを告げた広岡が新しい仕事に乗り出す記念の日だったのだ。
この特別ドキュメントで広岡は語っている。「ジャイアンツはどこが向かってきてもビクともしないような強いチームでなくちゃならない。なんだかわからないうちに勝ってしまったというような今の野球ぶりではどうしようもない。西武がチャンピオンになり西武球団の姿勢が何らかの影響力を持って来れば球界全体が変わる。野球そのものも、もう少し正当な形になると思う」(主旨・一部省略、挿入)。昭和56年10月29日の契約だった。
ヤクルト・スワローズ初優勝のドラマを「監督」という小説で世に出した海老沢泰久は、特別ドキュメントとしてヤクルト退団から西武ライオンズ監督就任に至る広岡の野球への愛情(それはジャイアンツへの憂いであったり、川上哲治との確執だったりもした)を描いた。
海老沢は続いて1983年1月号の「小説新潮」で第2弾を発表した。「広岡達朗1982」。見出しはこうだ。「1982年10月30日、史上3人目の両リーグ制覇監督が誕生した」。ここに描かれたライオンズでの取り組みは波乱万丈、エキサイティングそのものである。田淵選手の再生、日本ハムの抑えのエース、江夏豊との戦い、そして玄米食などの栄養改革。「ファイターズの大沢は自分のチームがハム会社の持ち物だったので、カチンときてこういった。『葉っぱばかり食って野球に勝てるなら、山羊さんチームだって勝つぜ、バカバカしい』」
思ったことは口に出す広岡の登場でパ・リーグの野球は面白くなったと言われた。阪急ブレーブスの監督だった上田利治は広岡を意識してこういったと海老沢は語る。「広岡さんがパ・リーグにきて、これでパ・リーグでも本当の野球ができるようになる」。
最近では作家が書くに値するプロ野球監督がいなくなったようだ。1983年の「文化評論」(新日本出版社)の対談で広岡は語っている。「プロ野球ファンがかなり増えていますからね、野球もやはり教育の場でもあるんです。そこのところが今の野球界でいちばん遅れているんですよ。まあ、マスコミも逆のことを書きすぎるんですけどね。最終的にはそこで、プロ野球というのは健全なスポーツで、人格も育てられるというものにしていかなければならないですね」。
先般、1984年~7年間読売ジャイアンツで活躍したウォーレン・クロマティ(元モントリオール・エクスポズ)が来日して語った。「日本野球はレベルが落ちている。もっと個性ある技術が見たい」と。高校野球は盛んだ。小学生(学童)の野球も毎週、試合試合で忙しい。その場面場面で海老沢泰久が描いたような、広岡達朗が目指したような野球が実践されているだろうかと疑問に思わざるを得ない。
日本野球のレベルが落ちているとするなら、作家が野球を描かなくなったことこそ象徴的ではないかと、わたしは思う。海老沢泰久がいて、沢木耕太郎がいて、山際淳司が「江夏の21球」を書き、赤瀬川隼が「球は転々宇宙間」などを発表した時代はどこへいったのか。
わたしは本棚から古い雑誌や書物を取り出す以外に今、野球に関して感動させてくれる本がない。そのことこそ日本野球の衰退ではないかと、わたしは思う。
0コメント