アリゾナ野球の旅(5)
今回のアリゾナは長女夫婦がロサンゼルスに住んでいることもあってか感傷抜きのリラックスできる旅だった。そしてホームページ更新に際して今、あらためて感慨を覚えている。野球部経験もなく、町対抗少年野球と草野球経験のみの男が、アリゾナ州テンピのスタジアムで野球をした。「思えば遠くへ来たもんだ」。
今朝(2017.12.9)のニュースで、大谷翔平選手(日本ハム)のロサンゼルス・エンジェルス入団が報じられた。彼はアメリカでどのように二刀流選手としてデビューするのだろうか。彼のキャンプ地は「Tempe Diablo Stadium」。このコラムで報告した場所だ。年齢と不調に苦しみながらも何とかしのいだあのマウンドに、大谷選手が立つ。日本時間10日の入団会見の場にマット日高通訳が並んでいたが、今回共通の知人を介して彼とロサンゼルスでキャッチボールを楽しむ予定になっていた。実現はしなかったが、大谷翔平選手との縁をひとり噛みしめている。
Mesa(メサ)のホテル「Hyatt Place」では「ペドロ・マルチネス自伝」(著ペドロ・マルチネス+マイケル・シルバーマン、東洋館出版社)を読んでいた。興奮して読んだ。アメリカの野球、風土、文化を実感できる現地で、これを読もうと日本から持参したのだ。ドミニカの貧しい地域からドジャースが主宰するベースボール・アカデミーに見いだされ、17歳でドジャースのマイナーに抜擢される経過もさることながら、「ミスター・デッドボール」といわれながらもインコース攻めに信念を持ち続けたペドロに圧倒された。
ペドロ・マルチネス(元ドジャース、エクスポズ、レッドソックス、メッツ、フィリーズ)。通算219勝。全盛期の1997~2003年(7年間)で防御率2.40以下が6度。ステロイド全盛時代の投手として高く評価され、彼は資格取得1年目で殿堂入りを果たした名投手である。肌の色、周囲の誤解などさまざまな苦悩を抱えた彼に手を差し伸べた人物がいる。「ガイ・コンティが僕を援けてくれた」。
ペドロによれば「(ガイの指導で身につけた)チェンジ・アップが僕に計り知れない価値をもたらしてくれた」という。当時マイナーのコーチだったガイ・コンティは私生活でも彼をサポートし、奥さんのジャネットとともにペドロをフリーマーケットや食事に誘ってくれた。わたしは2006年にベロビーチでガイ・コンティ(当時はメッツのコーチ)に会っている。彼はピッチング指導の際わたしに語りかけてくれた。「ペドロは17,8歳の頃から知っているが、彼は間違いなくレジェンドだ」と。そして身振り手振りで彼のボールがホップする様を表現して見せた。
ドジャース・アダルト・ベースボール・キャンプ(2006年11月ベロビーチ)のある夜のディナー。わたしたちのテーブルにガイ・コンティ夫婦が座った。日本人にもフレンドリーなご夫婦はわたしの指にワールド・シリーズのチャンピオン・リングをはめてくれた。宝石がちりばめられたすごい指輪だった。当時のわたしに知識があったなら、ペドロのことを詳しく聞きたかった。
メジャーへの昇格を嫌う監督もいた。「オレは国に帰る。ひどい扱いを受けてばかりだ」。そんな若き日のペドロ・マルチネスの能力を高く評価した人はガイの他にはデーブ・ウォレスがいた。ウォレスはドジャースでペドロを指導した。2004年にレッドソックスがワールド・チャンピオンになったときもピッチンング・コーチはウォレスだった。「デーブ・ウォレスはラモン(兄)とぼくにとても親切で協力的に接してくれた」と、ペドロは感謝の気持ちを隠さない。
わたしはデーブ・ウォレスとも親しく会話している。野茂英雄さんがドジャースへ入団したときのコーチがウォレスだった。わたしの投球にたいし、「モット ヒクメニ ヒクメニ」と日本語でアドバイスを贈ってくれた。「野茂さんにいつも言っていた」と彼は笑った。そういえばアリゾナのスポ-ツバーでワールド・シリーズを観戦していると引退したアナウンサーが始球式に登場したとき、ユニフォーム姿のコーチが引率していた。ドジャースのユニフォームを着たコーチはスティーブ・イェガー。1988年ワールド・チャンピオンのときの捕手である。彼は2004,2006年のベロビーチでわたしたちの監督を務めてくれた。ホルマン・スタジアムで彼にホームランを打たれたことも今は愉しい思い出となっている。
思えばレジェンドに出会っている。イェガーとガイに囲まれるわたし。ウォレスと肩を組むわたし。「ペドロ・マルチネス自伝」はわたしに多くのことを語りかけ、アメリカでの交友の素晴らしさを再認識させてくれるのだった。この本がわたしをアリゾナ単独挑戦の孤独から救ってくれたと思う。
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