スポーツの愉しみ方

 年齢とともに物の見方、考え方は変化する。人は齢を重ねて見えてくるものがあるから歳をとることは必ずしもさみしいものではない。むしろ逆なのではないか。

 前立腺肥大の手術を受けたのが昨年12月21日(木)。27日に退院してから安静を心掛け、濃い血尿に違和感を覚えながら日々を過ごす。1月9日(火)受診。経過は順調だった。そして術後約20日を経過して血尿がなくなっている。体を動かさない毎日はあまり気持ちの良いものではない。やっとウォーキング、軽いウェイト・トレに取り組むめどが立ってくると内外のニュースがわたしを刺激する。

 古希野球「三田プリンス」から当面の日程表が届いた。まじめな人柄Yさんからのメールだった。古希、還暦チームの合同練習もある。オープン戦も予定されている。昔のメンバーと再会する楽しさとともに、5月の古希西日本大会の遠征に目が留まる。場所は徳島県阿南市。「日本一の野球のまち」だ。昨年、わたしは知人と2人で阿南市を訪れ、関係職員から丁寧な説明を受けて野球場等を見学した。この遠征に同行し(年齢が満たないため出場はできない)職員の皆さんにご挨拶がしたいと思う。

 三田プリンスにはこういった喜びがある。小学生との対戦、女子野球チームとの交流、または三田市軟式野球協会の「500歳野球」に出場するなど、社会的な広がりを心掛けている点が優れている。野球をする喜び、スポーツを愛する気持ち、それは社会との結びつきなくしては存在しえないものだ。歳を経て俯瞰的にスポーツを眺めると箱根駅伝の印象も違ってきた。

 数年前、順天堂大学昭和47年卒の同窓会が宮崎市で開催された。部屋での二次会で中距離のエースだった「Mやん」がわたしに質問をした。「そやけど、君はなんで長距離ブロックへ移ったんや?」と。当時インカレ(大学選手権)の総合優勝を継続していた順大陸上部は約160名の部員がいくつかのブロックに分かれて活動していた。1,2年時に所属していた中距離はドイツのマインツ大学で学ばれたS先生が指導されていてそれは仲の良い愉しいグループだった。合宿ではビールも黙認してくれて、休日には八王子の先生宅で食事をごちそうになったりしたから、そこを飛び出る心境が理解できないのは当然だった。

 旧いスポーツ観だったわたしは自分を厳しく縛る傾向があった。「どうせ走る素質はない。よくわかってきた。ならばより厳しい練習をこなす長距離ブロックを経験しよう」。浅はかだった?夏の那須高原合宿では炎天下の30km走。当然最後尾。折り返しで沢木啓祐先生(日本の長距離を世界に通用させたパイオニア)の手からレモンが渡される。サラブレッドの厩舎を覗きながらの競馬場での練習もあった。箱根駅伝の試走では後にミュンヘン五輪3,000m障害で9位に入るKさんの荷物を持って平塚へ。たったひとりで20km余を突っ走るKさんの後ろ姿に感嘆の気持ちを抑えきれなかった。「箱根の選手たちはすごい!」。

 スポーツ開始時にどのような考えに接するかはその後の人生さえも左右する。武士道的な、求道者的な思想に触れていたわたしのスポーツ人生(前半)は狭小で自分を追い詰める傾向があった。今だからわかること。

 第94回東京箱根間往復大学駅伝競走大会は青山学院大の四連覇で幕を閉じた。長距離ブロックですごい連中と練習し、Kさんのバッグを運んだから、選手ではなかったが箱根の映像をリアルに感じることが出来る。下積みとはいえ箱根の空気に少し触れえたことで中学生の駅伝指導では成果を挙げることが出来たし、中学校の部活動では自主性を尊重し、明石陸上競技場を借り切っての記録会や「西脇青年の家」での合宿などを実施した。青年前期のわたしの試行錯誤が後々役に立ったのだが、もっとゆったりとスポーツを眺め、社会的な視野を持っていたら違う人生を歩んでいただろう。

 これから育つ若いスポーツ選手には青山学院の原晋監督の考えにも触れてほしいし、外国との交流もぜひ経験してもらいたい。そして視野を広く持ってスポーツ以外にも目を向ける賢さを身につけてほしいと思う。それがスポーツを一心不乱に愛し、挫折もし、そこから愉しいスポーツにたどり着いたわたしたちの教訓だと思うのである。

 昨日、久しぶりに動いたらホームコタツでウトウトしてしまった。スポーツの後の疲労感がなんとも心地良かったのだ。全力で投げ、走り、ボールに追いつく。そんな日々が術後のわたしにもうすぐどってくる。

 

 

シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

輝くシニア発掘~中高年に励ましを~

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