相も変らぬ、毎度の甲子園

 日本に夏が来て、識者がその猛暑に地球全体の気候変動を思いやるとき、夏の甲子園(全国高校野球選手権)が始まる。投手の球数制限も、涼しい時間帯に実施する「二部制」も即実施とはいかず、今年も例年通りの甲子園。

 相も変らぬ毎度おなじみの「甲子園」。その是非はそれぞれが判断することで、わたしが目くじら立ててとやかくいうことではない。言っても日本のスポーツ構造は変わらない。だが、個人的に勝手な意見を述べることは許されるだろう。

1.県外留学の甲子園出場

 プロ野球関係者と話す機会が増えると実感できるのが「退団後の人生」。運と実力(もちろん最大限の努力で)に恵まれてプロ野球に入団できたとしても、例えば30歳で引退すれば日本の平均寿命からして以後50年を一社会人として生活しなければならないのが現実だ。引退後に経済的苦労を舐める人もいれば、過去の栄光が忘れられずに人生を誤る者も出る。

 人生の目標は何か、そのためにどのような理念で野球をやるのか、その指導者の選択は間違ってはいないかなど、多方面から検討すると、近隣の公立高校で甲子園出場に縁はなくても勉強と部活動を両立させて卒業することにも大きな価値があるはずだ。

 米国には高校生の全国大会は存在しないと聞く。伸び盛りの体力にも、精神的にも弊害をもたらすからだ。促成栽培の危険性を熟知するゆえの対策である。現在の高校野球を無批判に礼賛するのはどうもよくないと思わざるを得ない。

2.「補欠選手」を極力生まない方法を探ろう

 マスコミの美談仕立てには苦笑する。強豪校では100人もの野球部員がいて、甲子園のベンチ入りは20名弱。大部分の部員はアルプス席でメガホンを手に応援している。内面的には苦しいはずだ。悔しい、情けない、辛い。補欠を控え選手と呼んでも同じこと、彼らの内面を想像してみよう。ネットで「高校野球と補欠問題」と検索すれば現状への多数の批判的意見に遭遇する。この問題が野球人口減少につながると指摘する向きもある。

 高校駅伝でも選手同士、選手と控えの絆を「心のタスキリレー」と美談化するマスコミもあった。その記者たちはおそらく「補欠」の悲哀を味わったことがないのだろう。米国の少年野球(日本でいうところの学童野球)ではレベルごとに毎週セレクションを開催していると聞く。Aのチームで試合に出場できなかったら、次にBチームへ移る。そうして子どもが試合に参加できるチームを見つけているそうだ。試合に出るから野球は楽しい。補欠は本当に苦しいのだ。

3.リーグ戦の導入を

 2の問題と関連するが、一戦必勝が求められるトーナメント制ではいきおいレギュラー選手が限定され、勝つための選手起用が優先される。今夏、準決勝で敗れた近江高校(滋賀)のエース・山田君はそれまでの4試合で500球以上投げている。力尽きるのも当然である。複数投手の継投で勝ち上がるチームも増えてきたが、今大会の人気ナンバーワン選手は近江の山田投手であると思われる(甲子園の象徴として)。

 これがリーグ戦になると、より多くの高校生が試合経験を積むことになり、育成や故障防止が可能となる。還暦野球、古希野球はリーグ戦だ。兵庫県還暦野球連盟では古希野球(70歳以上)の公式戦は年間12試合。一試合目は公式戦でけっこう勝敗にこだわるが(年寄りがと笑わないでいただきたい)、二試合目は交流戦。この2試合でベンチの全選手が試合を愉しむのだ。「補欠選手」は存在しないから、みんな仲良くワイワイ言いながら野球に興じることができるというものだ。

 広い視野で学童(小学生)、少年(中学生)、そして高校生をじっくりと育てるシステムが日本社会には定着しがたいものがあるようだ。少なくとも、わたしが所属する還暦・古希野球「三田プリンス」及び西脇軟式野球協会としては、広く、深い視野で生涯スポーツや子どもたちを見つめていきたいと思っている。


 

シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

輝くシニア発掘~中高年に励ましを~

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