時(とき)の移ろいを感じて
「ホテル日航関西空港」で孫たちを迎えたのは去る6月18日だった。娘が二人の孫を連れて4年ぶりに帰国した。7月20日、ロサンゼルスに向けて飛び立つまでの1か月はそれはにぎやかだった。名古屋、茅ケ崎から兄弟も帰り、我が家には珍しく全員が顔を揃える夏となった。孫は4人になっている。愉しい日々だったが、問題は迎えるための掃除、家の片付けだった。
老夫婦(と称するのは嫌なのだが)は「開かずの間」を必死で片づけた。6歳になる孫に「日本の家は汚いね」と言われたくないから、ごみ焼却場用の軽トラも購入して往復したものだ。おかげで田舎の「田の字型」家屋が見違えるようになった。成果はあったのだ。孫たちの嬌声が耳に残る今、片付いた部屋で庭を眺めて両親や祖母を想うと落ち着いた気持になる。歳をとるのも悪くない。
8月30日(火)、三田谷公園の還暦・古希野球練習会場へ行くと、足掛け14年の付き合いとなるYさんがチームを去るというではないか。野球以外の所要も増えたのだろうか。Yさんは昭和16年1月生まれの82歳、歯に衣着せぬ性格でピッチングについてはよく注文をつけられた。しかしすべては的確なアドバイスだった。外国の街がプリントされた若いTシャツのYさんがベンチを出てバックネット裏の階段を上るとき、わたしは少し丸まった背中に「さようなら」とつぶやいた。こうして少しずつ時が移ろうのが世の中だろうか。Yさんは「おいこれを使えや、お前のより少し大きいしな」と、上質なグラブをわたしに贈って去っていった。
「あんたの球を受けるのがワシの生き甲斐や」と言っていたKさん、野球の虫だった捕手のSさん、一時期のースとして頑張ったSさん。これら先輩たちを見送ってきた三田プリンスでの14年、多くの人たちとの出会いがあり、別れがあった。これからも寂しい出来事に遭遇していくのだろうが、皆で一日でもながく白いボールを追いかけたいと思うYさんの後ろ姿だった。
帰宅して新聞の切り抜きに目を向けると、6年前に14歳の息子を交通事故で亡くした48歳の男性の記事が掲載されてあった。神戸新聞「#北はりま」欄。「スポーツジム経営 亡き長男思い、鋼の肉体に」と題された記事には、長男を亡くした精神的ショックから立ち直るまでの苦しさが描かれていた。ジムの名は子どもの名前。「KZS(和志)トレーニングジム」。息子の名前を冠したジムで老若男女がコミュケーションを取りながら健康な心身を目指す。
経営するU君もパワーリフティング県1位(2021)、笑顔が似合うやさしい元野球選手である。署名は「伊田 雄馬」とあるから、西脇支局長になる地域トピックスである。わたしは想像する。利用者が去ったあと、掃除の合間に自らバーベルへ向かうとき、U君はときには和志君に語り掛けるだろう。もう戻ってはこない、14歳で人生を閉じた息子と会話をしながら涙を流すこともあるだろう。やさしい記者の眼だった。
生きて老いていく者、若くして亡くなった者。人生は厳しいが、それゆえに日々積極的に生活しなければもったいない。最近、健康そのものだった元同僚(バレーボールを専門とする体育教師だった)が脊椎狭窄症の手術をしてリハビリ中だと耳にした。「あの人はすぐに回復するさ」と笑うわたしだが、古希野球投手として肉体を酷使している身には他人事ではない現実がある。時代は変わり、刻々と時はうつろう。
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