学校が生きていた時代の話

 ゴルフコンペが開催された。2月25日(日曜日)三木セブンハンドレッドゴルフ倶楽部に集まったメンバは18名。名づけて「MBS38」の会。Mは三木市、Bは別所中でSは何だったかな、忘れた。38は昭和38年生まれを意味する。わたしの記憶は適当だが、集うメンバーはみな温かく結ばれている。参加者の内訳は10名が同級生で、4名はその息子や関係者であり、2名が後輩夫婦。加えて当時の先生が二人の、計18名。

 わたしが昭和48年に赴任した当時の別所中は各学年3クラスで1学級35人規模のこじんまりとして牧歌的雰囲気の漂う学校だった。新入生たちが春の陽を浴びて運動場の朝礼台前に整列する。担任の発表だ。「ぼくらのせんせい、テレビのせんせいみたいや」。ひょうきんなきみちゃんがわたしを見てつぶやいた。23歳青年教師の第一歩だった。

 毎朝生徒たちと走った。始業前の全員グランド5周は生徒会行事だった。4年になるときに順天堂大陸上部を退部していたわたしの脚は相当鈍っていたがおかげで若さを取り戻した。以後現在までスポーツ活動を継続している。

 男子体育の授業ではサッカー、ソフトボール、バレーボール、バスケットなどを愉しんだり、冬季には「かくれんぼ」(ドロケー)もした。野球部は夏に日本海でキャンプをしていた。国鉄(当時)志望の部員が団体切符を予約し、保護者がテントを集めてくれたから協力的な地域柄だったのだ。

 降車駅を間違えて一駅歩く。日本海諸寄の海岸線だ、荷物を背負っての一駅はつらい。荷を押しつけられた生徒会長はあまりのしんどさに涙を流したとか。今も語り草の一場面。食後は砂浜で歌合戦。エースが沢田研二の「勝手にしやがれ」を真似て帽子を飛ばしたり、大衆銭湯へ入ったり、それは自由だった。湯の中ではしゃいだグループが地域のこわ~いお兄さんに怒鳴られ、「せんせい助けて」と顧問教師を探したらその先生、素知らぬ顔で「わたしは彼らと無関係です」とばかりにさっさと着替えて出て行ったとか。

 そんな別所中野球部は3学年で15名。まとまりと練習量だけが取り柄。夏の総体になると小さな学校、田舎の学校が大規模校の三木中や新興住宅街の都会的センスあふれる緑が丘中に不思議と勝利するのだった。練習後には生徒たちとラーメンを食べたり、地域のお好み焼き屋でしゃべったり、三宮へ本を買いに行った子もある。保健室でいっしょに泊まった生徒たちもいる。だから勝てたのかもしれない。わたしの新任時代は無茶の連続だったが、当時の別所の生徒たちはわたしにとってはまさしく「二十四の瞳」だった。

 ゴルフのスコアは最悪だった。正直に書くことすら憚る。もう一人の先生、Fさんはむちゃくちゃ巧い。ハンディはシングル。かつての生徒たちは勝ち誇った顔で笑うのだ。「体育の先生が美術の先生に負ける」と。二次会は三木市内の焼き肉店。ブービー賞の元体育教師は締めのあいさつを断れない。

 「今F先生とも話していたが、ながい教師生活でも別所中が一番懐かしい。よく覚えている。教師は若いことが一番の魅力で、少々下手な授業でも熱意があるから生徒もついてくる。毎年このコンペへの参加を楽しみにしている。来年、また元気に会いましょう」

 別所での8年間の教師生活を終え、地元西脇中への転任がほぼ決まりかけた昭和56年3月15日、わたしは一冊の小冊子を刊行した。タイトルは「三美駅伝に学ぶ~私の教育学~」。書き出しの部分は、「去る2月18日、わたしたちは三美ジュニア駅伝大会(主催中体連)に三年ぶり二度目の優勝を飾った。昨年度東播1位、県大会3位の三木中を百人余の参加者という学校全体の総合力で破っただけに感激の意義ある一日だった」。

 まじめな仕事もしていたのだ。陸上競技部のない学校が生徒会を中心に練習会を組織して、そして勝った。大会前の14日は加古川市日岡山公園で100人規模の練習(80分クロスカントリー)をやって、帰りの列車ではあちこちで女子からチョコレートをもらう光景が見られた。自由、自主性、楽しさの追求。8年間をともに暮らした別所中の先輩、在校生、後輩、そして同僚や地域の人たちへの感謝をこめて小冊子を作製したのを思い出す。

 当時の生徒たちとゴルフをする喜び。それなのにスコアを問題にするかつての野球部員。誰や。元体育教師はいじられながらも若き日の教師生活を懐かしみ、55歳の卒業生たちにこれからの成長を誓うのだった。思えば良い時代に教師生活を送ったのだ。幸せだったのだ。ホルモンとキムチの味も幸せだった。


 


 


 

シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

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