水戸市に足跡残す

 第36回全日本還暦軟式野球選手権大会(10/7~11:水戸市他)

 野球のみの三日間だった。新大阪~品川~東京・上野~水戸を往復。どこへも寄らず誰にも会わずのBaseball  journey (野球の旅)だった。73歳の秋、心に染み入る水戸行で人生に新たなエネルギーを頂戴した3日間は認知症を発症するまではきっと忘れない。19人の姿とともに。

 野球道具を詰めた重いバッグはクロネコヤマトで事前にホテルへ送った。西脇南中時代の卒業生がいつも「先生、これはね」とやさしく教えてくれるので、わたしはいつもクロネコ記念日。バックパッカーよろしく、10月7日(金)6:08西脇発の高速バスに乗車。もちろん家内の送り。コロナあり、トイレ近くなりでバス乗車は数年ぶり。だから渋滞への警戒感ゼロ。

 雨の影響かバスは1時間遅れて新大阪駅着。8:09の東京行き「のぞみ」は出た後だった。チームメンバーとはぐれ、仕方なく車内で買ったコーヒー&「スポーツ小説名作編」(井上ひさし編 集英社文庫)を旅の友として一人寂しく品川を目指す。遅れたチケットは自由席のみ利用可だった。

 品川駅で常磐線のホームへ。特急ひたちに乗車。指定席券は通用しないので東京、上野までは通路に立つ。上野から水戸まで直行なので列車が荒川を超える頃に空席に着く。懐かしの東京の街並みを眺めた。といってもそこは下町情緒あふれる中小企業の工業地帯。まあ自分にとっては落ち着ける風情ではあるのだが。特急が30分近く走った左手に看板があった。「うなぎの牛久」。ここには「かっぱ」を描いた小川芋銭や「橋のない川」を書いた住井すゑの記念館があると聞いたが、列車は関係なく雨の中を走る。

 「Mさん、今13時、水戸駅に着きました。これからどうしましょ?」℡。足が悪くプレーはできない若手の(といっても60歳は過ぎている)彼は、チーム事務局として旅の手配一切を切り回す。人呼んで「スーパー添乗員」。彼は万事そつなし。そのスーパーが「開会式はいいですから周辺を散策しておいて」というではないか。開会式は感動的だが、ながい、疲れる、しんどい。そう思うわたしは駅ビル二階のラーメン通りへ直行。店頭に居並ぶ高校生に「どこがうまい?関西から来たんだけど、水戸は初めてでさあ」とのたまう。高校生が「(水戸へ来てくれて)ありがとうございます」と会釈した。礼儀正しい。そういえばこんな若い人たちに接するのも数年ぶりだ。多くの人が行きかう、にぎやかだ。

 でも、だが、食後の感想は「やっぱりラーメンは西脇や滝野(加東市)やで」だった。これを「味の刷り込み」ともいうらしい。県庁所在地、水戸駅周辺は店舗やホテルが並ぶ大都会だった。胃袋を満たした後は、家族的でとても古い「水戸プリンスホテル」の809号へ入りシャワーを浴びて皆の帰館を待った。夜は駅ビルで食事。もちろん飲むグループとまじめな人たちとは入る店が異なるのだ。それらの店情報も「スーパー添乗員」さんが把握済みである。

 生ビール一杯、ハイボール一杯と抑えた。当たり前だ、野球に来ているのだから。食事では丹波篠山に住むMさんはけっして枝豆を口にしない。「まずくて」。さすが黒豆の産地人は徹底しているわ。BSのサスペンスを眺めながら水戸の一夜は過ぎていった。8日(土)は6:00に食事。バイキング形式の気楽な朝。「パンにしようかな?」と思ったら、やさしい気づかいをする若手(63歳)のTさんがご飯を盛ったお茶碗をさっとさし出してくれた。それで朝は和食となった。みんなとユニフォームで朝の食卓を囲む(といってもひとりひとりを隔てる枠がある)楽しさ、ワクワク感は何年ぶりだろう。試合を迎える緊張感が楽しさを深いものする。

 これもスーパーさん手配のマイクロバスが来て、ホテルから笠間市民球場まで直行(約40分)。プロ野球の選手みたいだ。球場は実際に独立リーグやプロの三軍が使用する立派なもので、朝一の試合だからウォームアップは球場内で行える。体操、ストレッチ、キャッチボール、その後に先発メンバーの発表がある。チーム愛を感じるのはこういうときだ。スーパーのMさん、会計のMさん、レギュラーなのに足の故障で出場を自重するHさん、スコアラーIさん、Kさん、病後の監督Mさん、ゴルフの服装が似合うKさん、多忙な法曹関係者のKさんなどなど出番が少なくとも多額の自己負担で水戸へ来てくれている。わたしもそういう一員(スペア要員)として大会に臨んでいくつもりだ。皆と同じく、先発オーダー発表時には大きな拍手をするぞと決めていた。

 「4番 ライト Tさん」(わたし)、呼ばれてぎっくり仰天、なんでや?代役の自分が4番?誰かが笑った「4番目の打者ということで」。そうだよな、当たり前。ライトの守備位置からオレンジと黄色に塗られた大きなスタンドを見上げると「いつ以来かな、こんな野球場で試合をするなんて」とうれしくなった。わがエースK君は速球、落ちる球、カーブを力強くコーナーに決めていく。相手投手の速球もさえて緊迫の試合展開。3回表に2番T君がスクイズを決めて先取点。ベンチは燃えた。2点目は4回、ライト前ポテンヒット(ヒットであることに変わりはない)のわたしを二塁に於いて二死からGさんが右中間へヒット。懸命に走った、まだ走れるぞ!ホームイン。

 その裏4回に拙守で相手に1点をプレゼントしてちょっとやばい雰囲気。5,6回は両チーム無得点。次の点を取った方が勝利を握るだろう。そして7回表、3番Mさんの内野ゴロで1点追加、次打者わたしのときに「たたき」(3塁走者がスタートを切りわたしがゴロを打つ戦法)を。外角低めに外されて空振り、3塁走者がタッチアウト。3-1と4-1では大きな開きがある、拙いと思った。ベンチのみんなもそう感じているはずだ。これで三振でもしたら皆に合わせる顔がない、四番打者のメンツ丸つぶれ、ノーボールツーストライク。だがわたしもヴェテラン選手だった(?)。3球目の外角ストレートにレガシーのバット(これがよく飛ぶバットなのだ)をぶつけるとすごいライナーがセンターの右へ転がっていった。2塁走者のMさんが猛然とホームイン。そう、一塁上でわたしはガッツポーズを繰り返した。打った感触、見つめた打球の行方、忘れない。

 エースKさんが裏を三者凡退に抑えて「いわき泉還暦野球クラブ」(福島県代表)を4対1で破り初戦をものにしたのだった。「野球はやっぱり勝たないとな」、チーム最高齢の会長(82歳)が笑った。バスでホテルに凱旋、シャワーを浴びて「1時にロビー集合な」。飲むグループは再び駅ビルへ。「この店にすっか?」。「2杯目のハイボールが半額」につられて数人がオーダー開始。試合の興奮と疲労がまじりあう体に冷えたビールとハイボールがぐいぐいしみ込んでいく。昼間の酒がこんなにおいしいなんて、初体験。Mさんはここでも枝豆を食べなかった。最後に出たマーボ豆腐で締め。その後は洗濯とテレビで時間を過ごし(インテリたちは偕楽園へ行ったのに)湯船につかった。

 5時集合の夕食では、せっかく店を探してくれたスーパー添乗員さんに申し訳なかったが、畳に座る店は苦手。腰が痛くなる。ひとり店を出てラーメンを食べ、早めにホテルへ帰った。「明日勝てばまたみんなと飲めるさ」、で、ぐっすりと眠ったのだった。

 二回戦の相手は東京代表「杉並スーパーシニア」。メイン球場の「ノーブルホームスタジアム水戸」はりっぱだった。入り口には「学生野球の父」飛田穂洲(早稲田大学初代監督 1886~1965)の胸像がある。どの土地にも同種の顕彰碑がみられるのだが、わが街は・・・寂しい。「一球入魂」や「千本ノック」で軍国主義者かと想像していたが、彼は最後まで敵性スポーツを愛し、戦争中も早稲田は最後まで練習を続けたそうだ。今に見るスコアブック(早稲田式が主流)の原型は飛田穂洲の発案とか。胸像に並び写真を撮った。

 いや、さすが東京代表、投手の速球はお見事、さらに全員がバットを思いっきり振ってくる。わたしは横に滑るスライダーで三振。二打席目はサードゴロだった。わが三田プリンスの面々は人がいい、相手にやさしい、ビビりが多い?二日目の疲労か飲みすぎか、初回に3点を提供してしまった。三田は4回まで0点。4回裏に杉並の強打をまともに食らって(もちろん拙守あり)8失点、ライトの73歳は右に左に走りまくって、カットマンに送球すること数度。疲れたぁ。見守るベンチの人たちの想いやいかに。投手が変わった5回に2点を返すのが精いっぱい。われわれの挑戦はピリオドを打たれた。

 駐車場でお尻を出して急いで着替え。マイクロバスで水戸駅へ。駅前のコンビニで荷物を送り、「15:40には改札口へ」スーパー添乗員さんの指令にうなずく。水戸から品川の特急券も、品川からの新幹線チケットもすべてスーパーさんが準備していた。チケットを受け取るだけのわれわれは言ったものだ。「あの人なら旅行社で立派に務まるよ」。指定席に落ち着くと前方座席から紙コップが送られてきた。日本酒とワインが入っている。弁護士のKさんはチーズ盛り合わせを皆に配っている。雨で薄暮のような景色を眺めながら暖かい車内で酒を飲んだ。

 列車が柏(千葉県)に近づくと、52年前に習志野で見ていた田園風景に出くわし、思わず「雨の外苑 夜霧の日比谷・・・」と先般亡くなった新川二郎のヒット曲「東京の灯よいつまでも」が口に出る。「スカイツリーやで」。上野駅が近づくと、またまたわたしは「あぁ上野駅」を歌うのだった。ネオンが美しい。アメ横をいっしょに歩いた同級生はどうしているだろうか。帰ったら大津市に居るM君に電話しようかな。旅の終わりはいつもアッサリ。

 新大阪からは再び高速バスに乗る。21:14発の西脇行は若い男女でにぎやかだ。こんな風景も久しぶり。そういえばこの旅では「若者の文化」にも触れたなと、楽しい気分を感じていた。しかしこのバス、茨木県からの疲労より疲れる。二度と乗るるものかと思った。自宅の湯舟は最高だった、気持ちよかった。電話が入る、やさしいT君からだ。「今、Nさんはタクシーで帰られてくつろがれてます」と。長老82歳の会長を見守ってくれたようだ。スーパー君も、出場機会のなかった人たちも、もう自宅のベッドだろうか。

 横になると、笠間市民球場の7回表、センター横への打球の感触が蘇る。みんなで水戸に足跡を残した。目を閉じたらなぜか飛田穂洲の顔が泛ぶ。水戸黄門の姿は浮かばなかったが。




 

 


 



 

 

シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

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