感動の再会・50年を経て

 杉原川の堤をランニングすれば昔一緒に泳いだ村の子どもたちを思い出す。泳いだ後は神社の境内でソフトボールに興じる。誰かが「山(やま)」と叫べば右方向を狙えのサイン。そこには小高い植木のマウンドがあるから。神社の入り口付近には古井戸があって、そこを超えればホームランだった。今神社へ行くと境内は狭いが、当時のわたしたちには甲子園球場の大きさに思えたものだ。それだけ体が小さかった。夏には水泳の後「町対抗少年野球大会」の練習があって、村の子は近くの小学校へ集まった。

 遊びも野球もいつも一緒だった村の仲間に、中学校の野球部員はひとりもいなかった。そのチームが「北播親善少年野球大会」(各地区代表12チームが集った)で初優勝を飾った。昭和37年の8月の事。当時の「西脇時報」には1~4位チームの写真が載っていて、最上段に胸にMマークを付けた14名の姿がある。横には「西脇市代表M町が初優勝を飾る」の見出しがまぶしい。優勝旗を持つのはFちゃん(大阪市立大卒)、隣に長身の大エースYさん(私学中退)。腕が長く、素晴らしい速球を内外角へコントロールよく決めてきた。わたしが捕手(当時中1)だったからそのすごさは今も鮮烈な記憶となっている。下の3位チームにはのちの近鉄バファローズで317勝を達成した大投手・鈴木啓示(けいし)さんの顔がある。

 「昔ここで泳いだ村の子どもたちはどこへ行ってしまったのだろう」。夢も希望も、哀しみも共有していたかつての仲間と生涯再会することもなく、それぞれの人生を閉じることになるのだろう。 

 水上 勉の「良寛」を読み終えたころだった、一本の電話が入った。「約束の日に東京行きの用事が入ったから、急だけど11月26日に帰ります」。ひょんなことから携帯の番号を知ったかつての村の仲間(一つ年上)からだった。「待ってるわ、〇っしゃん」と、昔の呼び名で応えたわたしだったが、急にドキドキしてきた。同じ村で(古い話に町は馴染まないから)育ち、川遊びや神社でのソフトボールから、夏の少年野球大会などをともに過ごした兄のような存在の〇っしゃんは、さらにわたしと深く結びつき、人生を方向づけた人物でもあった。50年ぶりの出会いにはある種の緊張感が伴うのだった。

 中2の6月だった。彼が「陸上部へ入ろうか」とわたしにいった。それまではふたりとも帰宅部だったから、それもいいかなと軽い気持ちでふたり、陸上部の門をたたいた。2年生のわたしはなぜか走り幅跳びと三段跳びへ。178㎝で脚の長い先輩は400mを走り始めた。約2カ月の練習で出場した秋の地区大会のこと、彼は400mを57秒3で走り2位に入賞したのだった。55秒5で走れば全国クラスだった時代だからそれはすごかった。かっこよかった。

 50年ぶりのふたりは居酒屋で冷酒を酌み交わしていた。以下はその時に聞いた話である。西脇中時代にたった2,3度走った400mだったのに高校から声がかかった。とりあえず受験して報徳学園に合格した。「見ている人はいたんだね」と振り返るが、欲のない〇っしゃんは地元の西脇工業高校へ進んだ。一年遅れてわたしは社高校へ。ともに陸上部。大会で見る同じ村の先輩は颯爽とトラックを駆け抜ける。ヨーロッパではマイルレース(約1,600m走)が人気を博すと聞いたが、800mも負けてはいない、競技場の全員の眼がランナーに注がれる感じだ。1964年当時の西脇工業はO先生のもとで熱心に活動していたから彼はどんどん伸びていった。

 「いつも神戸地区のYさんと優勝争いしてたやん」と聞いた。しかし1分台ではなく「高校時代は2分00秒1とかが多かった」とのこと。飲んで知ったことだが、高校2年、3年と連続して全国インターハイに出場している。「〇っしゃんのせいでこっちは三段跳びを辞めて800に転向したわ。その後えらい目にあったで」とわたしは笑った。800mに比べるとフィールド競技が楽に思えて、先輩への憧れも昂じたのか高2の夏にわたしはジャンパーからランナーに転向をした。それが苦労の始まりだったとは当時は知る由もなかった。800はしんどい。

 大阪商大に進んだ彼は才能が一気に開花し、約2カ月で800mが1分58秒、1500mは3分56秒に伸びた。大学選手権(インカレ)のとき国立競技場(昔の)で出会ったことがある。順天堂大の補欠選手はスタンドで応援部隊、彼はインカレの決勝に残る大選手(1分52秒台で走っていた)。関西のスター選手に成長していた。わたしはうれしかった。村の野球から大学の陸上部へと似通った人生をたどった共通点もある。ふたりが東京の空の下で出会っているのだ。うれしいはずだった。

 50年ぶりの再会にはちょっと緊張感もあった。生きる過程で性格が変わる人物もいる、価値観も変化して話が合わなかったら・・・ドキドキ。だが、「やあ、たけちゃん」とあげた右手の開き方は昔のままだった。やさしい振る舞いも変わっていない。ふたりは一瞬で子ども時代に戻っていった。「大学時代はファンレターがたくさん来て大学が私書箱を設けてくれた」ともいった。「大阪大学の先輩がかわいがってくれて、就職を世話してくれて」現在があるともいった。「〇っしゃん」は陸上競技によって人生が開かれたのだった。それなのにまったく変わっていない、嫌みなところがない。

 「今朝から女房に、何をそわそわしてるのよといわれて」。両方とも緊張してたのだ。「Yさんはすごいピッチャーやったね、プロ野球へ行ける素材だったよ」。今頃どんな人生を送っているのだろう、一度会いたいなと彼がいった。川で泳いで、小学校で野球をして、ぼくはレフトでたけちゃんはキャッチャー、お寺の〇〇ちゃんがセカンドやった。天神さんでは山へ打てとか言い合った、と覚えていてくれた。「Tちゃんはどうしてる?」昔の野球を世話していた当時の監督の名を口にした。

 少年野球や陸上競技で同じ思い出を持ち、同じく故郷を懐かしむ人物がここにいる。二人で飲む冷酒は何本も開けられて、心の底まで酔いが回った。「次は我が家で飲もうな、〇っしゃん」と約束をして店を出る直前、彼がいった。「おたがい重いものを背負っているから負けたらあかんと、ぼくはがんばってきたんや」と。それを聞いて、わたしは先輩の左肩に静かに手を置いた。

 水上 勉風に言えば「在所の球根」。同じ球根を抱いた〇っしゃんとわたし。すばらしいひとときだった。また飲みたい、話したい。球根にもたまには水が必要だろうから。そうそう、彼は今もランニングは欠かさない。現役時代の体重64kgを維持している。大学陸上部の監督要請を断ったのも彼らしい。わたしは少し太って古希野球のエースとして今も「町の少年野球」を続けている。「在所の球根」を共に抱く人物との再会はドキドキからワクワクに変ったことを報告して「〇っしゃん」の思い出をひとまず閉じようと思う。








 

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