重なる訃報 歴史の終焉
あわただしい日程だったが、20日から関東を訪ねた。スカイマークで神戸空港を出発し、高田馬場駅前で諸用を済ませ迎えの車で茅ケ崎へ。二日目は由緒ある寒川神社で厄除けの祈祷を済ませ、再び茅ケ崎へ。西脇市では味わえない料理の二日間だった。22日(日)は箱根駅伝の道路を羽田に向かう。
左手に横浜の街。「あれがランドマークタワー、これはベイブリッジ」運転者が教える。「昔アメリカのメンバーと野球をした外国人クラブは?」「それは右後方の山の上かな」。機上で眺めた雪の富士山も相まって、体中の疲れが吹き飛ぶさわやかな小旅行だった。
21日の夕方、海岸でこれから続く「ライター」生活への決意を固め、海に報告をした。その砂浜は中学校の修学旅行で歩いた場所だった。縁深き海岸で、左に江の島、右に伊豆半島を見て、正面の海に浮かぶ烏帽子岩に誓っていた。そのころ西脇で恩師が臨終のときを迎えていようとは、まったく思いもよらぬことだった。
帰宅の翌日N先生から電話が入った。「先日飲んだ研究者Y君はいつか世に出るだろうな。カンパすべきだった」続いて「今日は訃報の連絡だよ」といった。一瞬の間をおいて「Fさんが亡くなった」。「・・・・・」
訃報の重みを自分でかみしめた。誰にも連絡しまいと思った。元プロ野球選手のSさんは別だ。「F先生が亡くなられました」と告げた。「いつまでも若かった先生が・・・そうですか」。わたしが育英や滝川を受験できたのは先生のおかげですからと、感謝の言葉を述べられた。F先生の訃報に悲しむ卒業生は多い。西脇市に野球の種をまいた人物だったから。
戦前の甲子園大会を経験し、戦後の農林省時代は進駐軍チームに入って日本各地を転戦したF先生は「進駐軍のパトカーが先導してくれた」と昔話を提供してくれたことがある。「いいことだよ、あいつら(アメリカ人)は底抜け(陽気)だからな」と、わたしのアメリカ野球体験をほめてくれた。先生の教え子は立教大学~ヤクルトスワロ-ズ、慶応大学、PL学園、育英高校などで活躍した。西脇中学校を県大会優勝に導いたのも先生だった。
織物産業全盛期の西脇、野球の活況。F先生の生きた時代は西脇にとっても「古き良き時代」だったといえる。この訃報は同時に西脇の街全体の訃報ではないかと、わたしには思えた。時が来れば、先生と歩いた道頓堀や北新地をひとりひっそりと訪ねるつもりである。
今朝神戸新聞訃報欄に目をやれば55歳女性の死が報じられている。年末だった。久しく賀状交換も途絶えていたAさんから突然にショートメールが入っていた。「がんと聞いてショックを受けています。わたしには信頼の先生に聞いてほしいと思って」。年末年始には自宅へ帰れます、うれしいですと綴っていたのに、今朝の訃報である。若い命だったのに。元気な明るい子だったのに。
昨日の野球練習には23人が集まった。10年に一度の厳寒と予報されたが、メンバーは楽しそうにボールを追い、球を打った。守備練習は下半身の鍛錬にいいとばかりに時間を割いた。エラーの多いチームだしね。会長のNさんは県還暦野球連盟から表彰されて皆の前で披露された。80歳以上でプレーしている4人が対象である。大きな拍手が湧いた。
プロ野球の元ホームラン王、門田 博光氏(74)の訃報が流れたのも昨夕の事。糖尿の持病を抱えながら兵庫県相生市で一人住まいだったとか。西脇市が生んだ大投手・鈴木啓示さん(元近鉄投手、監督)の記念すべき3,000奪三振は門田選手から奪っている。「私の速球をフルスィングしてくれた、男だった」とはプロ通算317勝(歴代4位)の鈴木さんの言葉。
すべての人に哀悼の意を表すとともに、積極的に生きていく決意を固める朝だった。今朝は一面雪化粧。F先生の旅立ちにふさわしい綿のような白い雪。
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