中・高年には自由が一番

 忙しい4日間だった。12日は西脇軟式野球協会の仕事始め。午前の審判講習会(一般社会人チーム及び学童のチームから各2名が参加)、午後は西脇公園から市総合市民センターへ移動しての「令和5年度総会」。活動報告、決算、予算、表彰の後、当面の日程説明と抽選が行われた。一般8、少年(中学校)5、学童9(1チーム増)が今シーズンの登録チーム数である。思わず「西脇・多可から軟式野球の日を消さないようにしようじゃないか」と言いたくなるような現状だが、これはどの地域も同じ傾向にある。わたしたちがプレーしていた頃は一般で40チームは存在したものだが。

 13(月)~14(火)は六甲アイランドで「バイト」。長男の仕事を手伝った。神戸市東灘区向洋町中の老人保健施設で二日間にわたってLEDの取り付け作業に関わったが、子どもたちからは「邪魔だけはするな」と忠告が来た。昼はうどん・蕎麦、夜は鶏料理を息子と(ほかに若い従業員が一名)食べて、用意してくれたプラザホテル神戸から大阪湾を望む夜景を眺めながらコーヒーを飲んだ。14日は「朝マック」で、一日働き、午後5時、名古屋へ帰る長男と別れてわたしは中国道で帰宅。まるで長男と「旅をした」ようなバイトで、疲れは感じなかった。これも2月から自由の身となった証、楽しい二日間だった。

 だがバイトの二日はトレーニングができなかった。明けて15(水)は今シーズンの開幕を告げる初の練習試合が待っていた。還暦チームの試合だから古希の投手はちょっと気が楽なのだが、準備万端、そこで手を抜かないのがスポーツ選手の哀しき習性。疲れた、寒い、暗い午後7時、軽いランニングと筋トレ、ネットピッチで調整するわたしだった。15朝、前夜にそろえておいたユニフォームなど一式を身に着けて、またまた中国道へ。73歳の「おじん」は三日連続で高速道路を走っているわ。自分で半ば呆れながら宝塚インターを降りてスポーツセンターへ向かった。

 河川敷でランニング。雪が舞っている。第一試合は三田プリンスが15-4と逆転勝ちを収めた。K投手が踏ん張って(初戦なのに6イニングも投げた)、みんながよく打った。わたしは7番ライトで出場し、そう3安打したのかな?死球ももらって勝利に貢献できた、ようだ。交流戦(二試合目)は先発投手で4イニングを投げた。初回にレフト左にランニングホームランを打たれ、さらに二つのエラーとスクイズで計2点先取されたが、2,3,4は完ぺきに抑えて11-4の勝利を呼び込むことができた。投球でよかったのは昔投げていた縦に抜くカーブを思い出してそれが有効だったこと。それによって速球とシュート、フォークが活きた。帰路は小雪舞う一般道を宝塚~西宮北~吉川~東条~西脇へと田舎道を走らせながら、FM放送をじっくり味わうのだった。

 全身にどっしりと沈み込む試合後の疲労感がたまらない。体は重くても、心はストレスフリーの軽やかな疲れ。夕刻にホーム炬燵から起き上がろうとしたら両ももの裏がけいれんして、思わず「イタッ イタ イタッ」。そこへ還暦のM監督から電話が入った。「今日は2試合も無理させましたが、肩、ひじは大丈夫ですか?中四日ですが20日(月)の尼崎戦も投げてもらいますから」と。やさしい心配りに「月曜も投げますよ、大丈夫ですよ」とハムストリングをさすりながら返答する単純な投手。

 軟式野球協会も、還暦・古希野球も一人ではできない、集団性と社会性が伴ってはじめて「楽しさ」が生み出される。豊かな老後は人や社会と切り離されては存在しない。NPO理事長を卒業して、今やっと自由の身となった。自由な気持ちで野球と向き合う日々が始まった。その自由の中からノンフィクションをひとつ書けたらもっと人生が充実するのだがと、欲深きことすら考えている。

 


 

 

 

 

シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

輝くシニア発掘~中高年に励ましを~

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