昭和は良かった

 先日の午後、我が家に二人の知人がやってきて「牡丹鍋」を囲んだ。一人は野球の先輩で印刷業、もう一人は近所でバイクを触る元教師。ビールと日本酒を楽しみながら人生の思い出話の中で一致したのは、「おもしろかったなあ、やっぱり昭和は良かったで」だった。

 昨日の試合後(還暦野球の)、三田市内のベーカリー・ショップで取材のまねごとをやった。取材する人は元プロ野球審判のF氏。張りのある大きな声で語る彼はプロ通算3,000試合以上の出場を誇るプロ中のプロ。話題は「江夏はすごかった」と優れた選手たちの思い出から、「今は育成期間が3年設けられて、おれたちのときのようにがんばったら試合に出場できる目標がないもんな」と、プロ野球機構側の問題点への指摘など多岐に渡った。昔は審判の組織がセ・リーグとパ・リーグに分かれていて、「だから競争がないもん、今は。昔はセとパでいい意味の競争があったよ、競争しないとダメやわ」とも語ってくれた。

 Fさんとは「4月10日に再度、掘り下げた話をお願いします」と別れたが、それまでにFさんがモデルとなった小説「影のプレーヤー」(赤瀬川隼 著)をはじめ、彼に関する資料を熟読してインタビューのポイントを整理しなければならない。わたしごときに気軽に応じてくれるFさんは別れ際にいった。「おれたちの時代はよかったよ、いいときだったんだな」と。100歳までがんばるでと、大好きなメロンパンを二つも口に入れながら「昭和という時代がよかった」と笑った。ここでも「昭和」が登場した。

 最近は昭和に縁がある。元神戸新聞社北播総局長のY氏が毎月送付してくれる神戸新聞社OBさんたちによる「ニュース老春」もおもしろい。OB諸氏が健筆をふるっている。山登り、家庭菜園の話から、宗教や社会的出来事までをおしゃれな感覚で綴られている。みなさん文章が巧い。退職後も健康で、社会との接点を保持しながら良き人生を形成する姿が参考になる。65歳の私立探偵が活躍する小説も最近の愛読書となっていて、前後左右全てが「懐かしき昭和」で覆われているような日常である。

 還暦・古希野球もこれはまったく昭和そのもの。「遊びといえば野球」だった時代のノスタルジックな思いがわれわれをグランドへ引き付ける。2月27日のオープン戦で好投したわたしは、以後、3月2日の還暦開幕戦に8番ライトで出場し2-1勝利。6日は古希開幕戦に10-3で勝ち、9日の還暦二戦目はDHとして6-4の勝利に「ちょっとだけ」貢献した。負けなしの3連勝。「今シーズンはいいピッチングができるぞ」と思っている。その裏には後輩の死がある。

 昨年暮れに野球の後輩が急死した。彼の死に顔を見ながら、彼の生きた証の一つとして「Mのようなカーブを投げよう」とわたしは誓った。とにかく縦に大きく曲がるいいカーブを持っていた。力まず軽く軽く投げるのがM君の特徴だった。とはいいながら練習の中ではすっかりそんな誓いも忘れていて、2月15日の宝塚スポーツセンターで練習試合に臨んでいた。キャプテンのMさんと交流戦(2試合目)登板のためにキャッチボールをしていたときだった。Mさんのゆるいカーブを真似ていたら、昔のカーブの握りがパッと蘇った。閃いたのだった。「これやこれや」。試合で試すと落ちる落ちる、曲がる曲がる。ピッチングの幅がいっぺんに拡がって、それ以来安定した投球が可能となっているのだが、それは亡くなったM君のわたしへのプレゼントだったのかもしれない。

 昭和の匂いに囲まれての野球人生。もし還暦・古希野球がなかったら、わたしは古希を過ぎてどうやって社会と接点を持っているだろうかと、「寂しい老後」を想像する。週2回は三田市へ車を走らせる。宝塚、芦屋、尼崎などへの遠征も多い。大阪、山口での全国大会も待っている。スポーツライターの仕事もあるで、軟式野球理事長の活動もあるし、と感謝しつつ、昭和に生き、昭和を去っていった人々の歴史を大切にしようと誓っている毎日である。


 




シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

輝くシニア発掘~中高年に励ましを~

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