読売新聞「あれから」vol.33

 15~16日は数年ぶりの京都行だった。平成31年に亡くなった母親の納骨で大谷本廟(東山区五条)を訪れた。篠山(兵庫県)亀岡(京都府)の田舎道から、河原町五条、西大路や今出川など、全国高校駅伝の中継で耳にする街並みを横に見て京都市街をゆっくりと走った。納骨を終えた夫婦は春の陽を浴びて、きれいな空気を求めて貴船神社へ。清流のせせらぎを聴きながらそばを食べる。16:30には息子夫婦のプレゼントによる「ザ・プリンスホテル宝ヶ池」へ。50年前の新婚旅行も京都だった。お金もなかったし、当時の京都はあこがれの地だったから、それで充分満足だったことが思い出された。

 入浴を済ませて夕食会場であるホテル内の中華料理店へ入ると同時に携帯が鳴った。鈴木啓示さんからだった。「読売新聞のT記者から電話があって、わざわざ三田市局へ寄られたとか。T記者は、あの人は鈴木さんのことを本当に思っていますねと話したよ」とわたしに告げた。西脇市出身の大投手・鈴木啓示さん(元近鉄)を取材した記事「あれから」が読売新聞特別面(1ページ大)を飾ったのは3月12日の事。記事に感謝しながら14日、プリン5個を手土産にわたしはT記者を訪問していたのだ。

 「投げたらアカン」空回り・・・現役時代のグラブを片手にした鈴木さんの顔写真(西脇公園野球場で撮影された)が大きく映る記事にはそんなタイトルがつけられている。「近鉄一筋20年 不屈の“草魂”大エースに」の小見出しの下には、「持論に固執 チーム低迷 3季目で解任」の太字も。記事の内容は監督になってからの苦悩、失敗、野茂英雄投手(近鉄~ドジャース)との確執にも正直に触れていた。

 今まで鈴木さんのことを「監督失敗者」として悪意に満ちた言葉で批判する者がいた。大した実績もないのに引退後はタレントとしてマスコミに出て得意げに語る男がいた。そのような人物に限って監督、コーチの経験がなく、組織を束ねる苦労も知らないことが多い。それゆえに、鈴木啓示という人間を再評価してもらうには監督当時の失敗も反省も公にすることが必要だと考えていた。「名選手かならずしも名監督ならず」は恥ずかしいことではない。長嶋さんも、王さんも、監督初期には随分とその采配を批判され、両者とも解任の憂き目を味わっている。残念ながら鈴木さんには再登板のチャンスがなかっただけなのだ。

 T記者は言う。「この10年、鈴木さんが毎年足を運ぶ場所がある。故郷の西脇市で開かれる小学生の軟式野球大会、草魂カップだ」と。「草魂カップ」から、2021年~22年の26回にわたって連載された「わが心の自叙伝」(神戸新聞社)が誕生した。そして今回の「あれから」。鈴木さんとわたしたち実行委員会、および西脇軟式野球協会、北播少年野球連盟が10年間、コツコツと積み上げてきた努力が「鈴木啓示 再評価」につながっていくことも大会の一つの目的だった。その意味でも待望のうれしい記事内容だった。

 そんなことも考えながらの京都洛北の旅。二日目は下賀茂神社に詣で、みたらし団子を食べて、再びゆっくりと田舎道を走って帰途に就いた。静かさを求めるのは歳のせいだろうか。鈴木さんも歳を重ねて「マウンドの孤独から解放された笑顔はやさしい」(あれから所収)。「大リーグの道ひらいた野茂たたえたい」との言葉も今回活字化された。わたしはT記者にいった。「いつか西脇公園野球場で鈴木さんと野茂さんの握手が見たいですね」と。Tさんは「トルネードの始球式もいいですね」と笑った。

 さいごに「草魂カップ」実行委員長の言葉を引用してブログを閉めようと思う。鈴木さんと西脇市の野球関係者の信頼関係が伺えるものだから。「今でも監督で失敗したという人はいる。でも、影の大きさは偉大さの裏返し。言い訳をしない潔さこそ、真の人間味ですよ」。

シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

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