鉄人 衣笠祥雄 逝く
4月13日に長女とその娘(孫)がロサンゼルスから1年ぶりに帰国し、それに伴って家族が終結したりと賑やかな日々を過ごした。5月16日に関西空港から帰国する5日前には主人も合流した。空港で母親とハグして涙を流すママを、孫のKは不思議な表情で眺めていたものだ。
セキュリティを抜けるともう会えない。「あの子(長女)はこうして何回泣いたのか」と女房が言った。高校留学時を含め、希望にあふれた渡米だけではなかった。先の見えない別れもあったし、7年前ひとりトーランス(ロサンゼルス)に向かうときは双方ともに辛かった。
孫は、日本人のママと、アフリカ系アメリカ人と日本人の母から生まれたダダを持つ。小顔で目が大きく、肌は褐色。頭はすこぶる優秀だ(と思える)。その親子連れが日本を去って、また二人と猫一匹の暮らしが始まり、NPO法人の法務局への提出文書が一段落した今、わたしは机に向かってスポーツコラムと向き合っている。
プロ野球記録の2215試合連続出場の記録を持つ元広島カープの衣笠さんが去る4月23日夜、大腸がんのために死去された。71歳だった。約1年前にプロ野球関係者から鉄人の体調が芳しくないと聞いていたから、いずれこういう報道がなされるのではないかと危惧はしていた。
1979(昭和54年)11月4日の日本シリーズ第七戦、後に山際淳司が「江夏の21球」と記したピンチの場面で、衣笠はマウンドへ近寄って江夏をなだめたエピソードは有名だ。王貞治氏も「ナイスガイ」だったと回想している。衣笠祥雄は「いい男」だった。その彼は引退後監督、コーチとしてユニフォームを着ることはなかった。彼の出自が「一匹狼」的性格を形成したのかもしれないと、わたしは想像しているのだが。
「彼の父は沖縄に駐留していたアフリカン・アメリカンの兵士だった」(ロバート・ホワイティング・夕刊フジ5月9日号)。記事によれば、あるとき興津内野手は衣笠選手が英語の勉強をしている姿を目撃した。なぜ?と尋ねると衣笠選手は「アメリカに行って父を捜したいんだ」と答えたそうだ。
戦後すぐの日本では、肌の色が違う子はいやな思いをして育ったはずだ。差別の怖さは、それを受けることによって、人の温かさとやさしさを与えてくれる一方、「まけてたまるか」といった激しい性格を形成する。いきおい一匹狼的性分が育つ。努力家、熱情家、ナイスガイ。プロ野球関係者によれば、「衣笠は広島カープのMオーナー(当時)に好かれていなかった」という。衣笠の血が、監督、コーチの座を呼び寄せなかったのではないかと、わたしは思う。
長嶋茂雄氏は読売巨人の終身名誉監督で、868本の本塁打記録を持つ王貞治氏はジャイアンツにいない。だが王貞治氏はソフトバンクの孫正義会長というよき理解者、支援者を得た。同じく広島カープの黄金時代を築いた山本浩二氏は二度監督になったが、衣笠氏には孫正義会長のような存在がいなかったということだ。残念だった。
ロバート・ホワイティング氏によれば、アメリカでは王さんより評価が高い(連続出場記録には球場の大小、投手のレベルは無関係)衣笠さんの死去に際し、MLB公式ページに彼とカル・リプケン(衣笠選手の記録を破った)の交友関係に関する記事と写真が掲載された。タイトルは「日本のアイアンマンが死去」。
わたしは69歳を迎える。今も投げ続けているが、衣笠選手の言葉が忘れられない。彼はドライマティーニを飲みながら言ったそうだ。「野球をやっているあいだは青春だよ」
彼の病名は上行結腸がん(大腸がん)。三度の食事に肉を食べる彼を見かねて友人が「野菜も食べたら」と薦めると、「だって牛は野菜を食べてるんだぜ」と笑った。彼はステーキを食べながら、家族を捨てて去った遠いアメリカの父を想っていたのではないだろうか。
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