♪ 明けわたる 空の白雲 ♪
ブログの題材も感動が深すぎるとなかなか文章にできない。4月30日の出来事がそれに該当するようだ。わたしの教師生活のスタートは「三木市立別所中学校」。同じ小学校からそのまま上がってくる生徒は一学年2~3クラス、平和でのどかな学校だった。そのときの生徒たち10人が中学校に集まった。当時の女生徒も一人来てくれて。
1976(昭和51)年から始まる3学年の野球部員が四十数年ぶりに集まろうという。その日は雨、昔懐かしい校舎に足を踏み入れて天気の回復を待つこと1時間。幕間を利用して校内を散策。「ここにバックネットがあったな」。現在は南側に移動しているが、当時は北の端に在って、数々のドラマを生んだのだ。現在の職員駐車場には女子テニス部のコートがあった。その西にトイレ。新しい校舎が思い出に蓋をしてくるが、技術室はまったく当時のままで、体育館の位置も、プールの在り様も「青年教師」の時代を彷彿とさせるに充分だった。
校門前には文具や飲料水を売る店があった。「ニスギ」と呼んでいた。野球の練習、教師が自信たっぷりに言い放つ。「今からのレギュラー・バッティングでヒットが3本出たら全員にジュースをおごるぞ」と。部員全体で15人、まあ3本は打たれない、と読んでの提案だ。そして毎度、誰かがジュースを買いに行くことになる、今はないけれど、その店の跡が懐かしい。
グランドがぬかるんでいても「外でやろうや」ということに。I君は現在現役教師でM中の校長先生だから、ちょっぴり融通が利くと踏んでの決行。まあ謝ってくれるだろう。還暦前後の「生徒たち」が投手を務め、みんが打っていく。年月を経てもバットの振り方、ボールを投げるフォームには当時の面影が。この日のために注文してくれたTシャツの胸には「BESSHO」と当時のままの字体でイニシャルが入っていて、帽子にも「B」マークが。それを身に着けてはしゃぐ彼らの姿に、教師だった若い日の自分の姿が重なって、不思議な気持ちになった。「この運動場で、みんなと野球をしていたのだ]
12:00からは居酒屋に移動。参加メンバーで、今は「社長」と呼ばれる男の娘婿が経営する店へ。愉しく飲んだ。別所は小規模校。それが少人数でこつこつ練習をして三木中(大規模校だった)に勝つ醍醐味は最高だった。上からの強制より、今風の「楽しさ、自主性」を重視した野球部だった。わたしは後に大規模校で生徒指導などに追われる中、「厳しい」(といえばかっこいいが、生徒を叩くこともあった)先生と呼ばれるようになった。言い訳すれば「愛情いっぱいの厳しさ」だったが。
別所ではよく合宿をした。山にも登った。夏には日本海の諸寄海岸でキャンプもしたなあ。重い荷物を一人で背負った生徒会長もいた。歌合戦あり、肝試しもあった。「先生が練習さぼるから、オレら先輩にボコボコやられたわ」と苦い思い出もポロリと。思い出話の中でわたしはふと思うのだった。
ここにいる全員に共通していること、それは全員が中学校の頃の「純な心」を持ち続けていることだった。歳を重ね、社会生活を重ねると人は変わる。変わって当然。だがいつまでもつきあえる卒業生に共通するのは「昔の心」を変わらず抱いている者たちなのだ。朝は「社長」が西脇市まで迎えに来てくれて、元生徒会長が三木市から自宅まで送ってくれた。会費は?Tシャツ、帽子の代金は?「先生は要りませんよ、古希祝だから」。わたしの新任時代、実は純朴な「別所」の生徒たちと、親切な風土に助けられての日々だったのだ。
次回にはどうやって返そうかと思いながら、別所中の「教え子」との時間が過ぎていった。わたしの原点がここに在ると思った。こんなにすばらしい生徒たちと8年を過ごしたのだ。すでに亡くなった当時の先生方に感謝した。野球部も知るだけで三人が若くして亡くなっている。「S君に、Y/s君に、そしてF君に献杯!」。わたしも「純な心」を持ち続け、ここにいる彼らと素直に接し、老いていく自分に元気をもらおうではないか、そう思った。彼らも58歳~60歳を数えるのだが。
「11月に三木シニアと試合しよう」と決めて、皆は別れた。メンバーの一人が監督を務める硬式野球クラブ「三木シニア」の1年生と試合をするという。「先生がちゃんと投げてくれたら試合になるわ」、簡単に言ってくれるぜ、監督。いいじゃないか、また「BESSHO」のTシャツで集まれれば。
シャワーを浴びて自宅の書斎に上がると校歌が浮かんできた。「明けわたる 空の白雲」。まだ暗記しているものなあ。やはり教師にとっての最大の武器は、技術は、「若さ」だね。先生がいたから「ぼくは教師になった」といってくれる校長先生。しみじみと、幸せな一日だった。
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