卒業生との交流
野球を辞める日は確実にやってくる。2年後が一つの潮時か?寂しいことだがすべての事には終わりがある。と、マイナス思考をしているには理由があって、右脚に疲れがたまってふくらはぎを痛めている。走れない。走れないなら投げることが出来ない。痛い。
「〇〇さん、足速いですねえ」。褒められて、元陸上選手はうれしくて、還暦野球交流戦で盗塁、ランニングホームラン(自分と他の打者)で塁上を走りまくった。さらに調子に乗って、西脇市の「都麻の郷交流グラウンド」(土だが400mトラックなのだ)に立ち、学生時代を懐かしむかの如く(元順大陸上部所属)80~100m走をやった。確かにかつてない球が投げられた。パフォーマンスは向上した。そして、パンク。
治療院を尋ねた。中学生時代、陸上部の生徒だったK君の施術を受けた。「年寄りがムリするからや」と言われた。さらに針治療に。この人物も中学校時代からかかわりがある人物だ。思えば「かつての卒業生に世話になっている」のだった。
先般、三木市立別所中時代の野球部員と40年ぶりにグラウンドで再会した話は書いたが、彼らは昔「TAKESHI BASEBALL CLUB」なるチームを作ってユニフォームもこしらえて、「恩師」に敬意を表してくれた。わたしはそれらにどれだけ報いてきたのか、反省することしきり。こうして卒業生への気持ちが複雑に昂っていたら、家から見える川向こうに火の手が上がっている。「こりゃ、Hの家の方や」と急いで電話を。20年ぶりだったが、彼は「いえウチじゃないです」といったあと、相互に「一度飲もうか」と相成った。
西脇中時代のリレーメンバー(当時の陸上部)二人は56歳を迎える。すでに3走とアンカーは亡くなっているから、「次は2走のYやな」と笑いながら3人は初めてビールを飲んだ。場所はYが経営するカーショップ(自動車屋)の隣で、3走だった男の弟が経営する通称「日野の迎賓館」と呼ばれる居酒屋だった。経営者も元陸上部だ。最盛期には160人の部員を抱える大陸上部の基礎をつくったH君とY君。わたしは当時を振り返って「さわやかスポーツ実践記」なる小冊子を書いているから当時の生徒たちとの交流はある程度覚えているでと思っていたら、たくさん忘れていた。
「不真面目な先輩もいたし、なんで陸上部に入ったんや」、Yに尋ねた。彼は意を得たりとばかりに小学校時代の野球を振り返った。「殴られるし怒られるし、足が速かった一番打者のぼくはいつも「待て、待て、バント」、ばっかりでちっとも面白くなかった」から陸上部に入った、らしい。「楽そうやったしな」と加えるのをYは忘れなかった。当時の陸上部は「プチ不良」のたまり場だった。「そこへ2年になったら厳しいオッサンが来た」。
一見意欲なさそうな車屋Yは西脇工業高校へ進学(駅伝で有名)し、陸上部へ入った。「君は竹本君の教え子やな」と、顧問のW先生から入部を当然視され、短距離ブロックへ。しかし西工高は駅伝が主流。練習初めの2000mジョッグに「僕のいる場所じゃない」と感じ、勇気をもってW先生のいる体育教官室の扉を開けた。「ほんま勇気が要ったわ、中学校の先生に合わせる顔ないぞと言われて」と、当時を振り返った最後にYはポツリと口にした。「僕が現在あるのは先生のおかげや」。
主将だったHは昔の儘の純情な表情で大きな目とながいアゴを突き出して、正確な記憶力を披露した。千ヶ峰(1006mの山)へ登ったときに頂上で好きな子を言わされたと、彼は言った。「みんなS/Hさんと行ってれば済むと思って何人も」。そこで元顧問は切り返す。「君は違ってたな」と。「ぼくはNさんが好きでしたよ」と旧3年3組だったF/Nさんの名を堂々と口にした。彼も最後に意外な記憶を披露した。「先生が西中へ来られたのは32歳でしたね、着任挨拶で、この学校は母校です、3年のとき校門入り口の体育倉庫裏で置き傘(蛇の目風)を燃やして叱られたといわれて、えらい先生が来たなと思いましたよ」と笑った。
それ以後、厳しい練習の陸上部が誕生し、問題行動の減少にも一役買って、県の強豪校に成長していった。リレーメンバーはリレーカーニバル決勝に残って(6位だった)サンテレビにオレンジ色のユニフォームを登場させた。苦労のし甲斐があるいいメンバーがたくさん揃っていた。部活動地域移行なら、もう中学校の先生たちに「感動ある先生と生徒の交流」なんてなくなるのだろう。
学生時代、室生犀星の「ふるさとは 遠くに在りて・・・」みたいに、東京に憧れていたのに「なんで自分だけが生まれた町に居るのだ」とたびたび思っていたが、あるとき遠く多可町の高い山並みを眺めていたら、「ここにいるのも悪くないのかも」と感じた。故郷を出た者と昔をつなぐ自分。卒業生と語らう自分。そんなことを為すためにわたしは田舎に残っているのだろうと思えてきたのだ。
別れ際にリレーメンバーふたりが言った。「次はN先生と飲みたいですね」と。先輩であり、わたしが教頭時代の大校長だったN先生へすぐに連絡を入れた。「懐かしい名前を聞いた。楽しみにしている」と返信が来て、ちょっと秋風が舞う頃に再会を約束して3人は別れた。「卒業生っていいもんだな」。人生もいいものだと思った飲み会だった。
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