書く喜びを感じて
元セントラル・リーグ審判員、福井宏さんの「オレの若いころを書いてくれないか。今のオレじゃないよ」の一言から始まった旅が一区切り。文章のポイントは、まずは福井さんの存在を幅広く知ってもらい、同時にその情熱的な人生を認識してもらうこと。投稿の舞台を持たない無名のライターは「まずは神戸新聞文芸欄へ」と考えた。エッセイ部門は400字詰め原稿用紙7枚。以前は10枚、この差3枚はなかなか難しいのだ。
銀行員の職を捨てて採用試験を。九州人の夢「関門海峡を越える」ことへの挑戦。甲子園球場で一週間にわたる審判一般公募採用試験。24歳の青年は輝く目と、大きな声が評価されて特別枠での合格、その後努力を重ねて史上6位の出場数を重ね、セ・リーグ審判部副部長に就任。迎賓館で3,000試合出場を祝う会も催され、甲子園球場の歓声が聞こえる閑静な住宅街にマイホームも建てた。「審判ひとすじ60年」の人生はわたしには書ききれないくらいに、偉大な審判なのである。
本日7枚を郵送した。点検していただくために。たった7枚の原稿用紙を前に悩み抜いた数カ月だった。向田邦子を初めて読んだ。林芙美子も、その他いくつかの作家の作品に触れた。そんなとき、元神戸新聞社のYさんからある記録のコピーが届いた。「小さな島に大きな力 家島分校の重量挙げ 日本一から半世紀」。軽やかな書き出しで、昭和5年のインターハイ優勝とオリンピック選手の誕生、その後の島の歴史を紐解いている。わたしが福井さんのことを書いていることを知っての無言のアドバイス(援助)だった。
数カ月、福井さんと対話しているような日々だったが、ひとつの「人生に触れる」ことに楽しさを見出している自分がいた。ノンフィクションの魅力を感じたのだった。かつてわたしは「神戸から軟式野球の灯を消すな」と題した本を書いた。神戸・淡路大震災からちょうど10年後のこと。神戸市内を歩き、復興野球に奔走した新日本スポーツ連盟のSさんに話を聞いた。Sさんも野球一筋、アメリカの審判学校へ三度も赴く本物の審判で、神戸の街でSさんの人生に触れて多くのことを学んだ。今はは二度目の挑戦をしていることになる。
「書くっていいものだ」。そう感じていたわたしは先日、旧西脇市街地で古本屋を経営する「町づくり」のプロ、Kさんを訪問した。狭い空間だが、横尾忠則(西脇市出身の芸術家)の著作や絵画集、国内外の名作が味わい深く並ぶ小粋な書棚がまぶしい店だ。Kさんからはこんな挨拶状が届いていた。
「さて、この度かねてより準備を進めてまいりました出版社「株)ヘソノオ・パブリッシングを設立しましたのでお知らせ申し上げます」。その主がいった。「西脇市が生んだ大リーグ研究家、今里 純先生の伝記を書きませんか」と。福井さんの投稿が済めば、そうだ、もう一度郷土資料館の地下に籠って、次は今里先生に取り組もうかと、その気になった。Kさんの出版への想いがわたしの背中を押し始めている。刺激を受けている。
古希野球はもちろんだが、書くことへの興味も、人生を豊かにしてくれる。
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