研究者の仕事

 スポーツ選手にけがや故障はつきものだが、古希野球選手の故障は治癒が遅いだけに辛いものがある。1ケ月が経過した。7月3日(月)に古希野球公式戦で快勝したのち、14日のネットピッチングで右ふくらはぎが「ぐにゅッ」となった。(3日段階で右脚全体の疲労は在った)。その後、強豪相手の試合が待つために無理をして、18日(火)の練習でマウンドに立った。そうしたら再び右脚が・・・。立てず、歩けずの大ピンチとなってしまった。

 整形外科の診察、整体治療と3か所巡っても、完治には至っていない。「引退」が頭をよぎる。古希で引退もないものだが、自分から野球をとったら何が残る?消極的な人生だけが残るんじゃないか、そう考えて悶々とする日々が続いた。幸い、わたしには「物を書く」という趣味があった。気持ちをライティングに傾けて消極性を払しょくする挑戦を行った。

 元プロ野球審判員を書いた「審判ひとすじ60年」(400字詰め7枚)をまとめた。福井審判員に原稿を送ると電話がかかり、「いいじゃないですか、あれでいいよ」と笑ってくれた。もう一つは1990年の夏に経験した「1990 夢の大リーグ観戦ツアー」(A4版19頁)を加筆、訂正した。はたして、「怪我の功名」となっているだろうか。書いていると、心は1990年のシカゴやカンザスシティに飛んでいき、シアトルでコーヒーを飲む昔が蘇り、なかなか愉しい時間だった。

 こうして書くことに大きな刺激を与えてくれたのは、研究者のY君の存在だった。東北大~北京大学大学院を経て、日中学術交流会を主宰する傍ら現在は東京で科学史を中核とした研究に余念がない。彼は昨年、雑誌「葦牙 ASHIKABA」に三回にわたってある連載を行った。題して「野村克也監督への手紙」。

 第一便では、野村監督の死を悼み、子ども時代のアニメ「侍ジャイアンツ」や「野村スコープ」(解説における配球の妙を世に知らしめた)の思い出を記している。後半には、「野村監督にテッド・ウィリアムズ打撃論を送った歯科医師」として、Y研究者とわたしの同郷である故・今里 純先生のことを書いている。大リーグの「最後の四割打者」であるテッド・ウィリアムズの打撃論によって「読みに強い」後の三冠王・野村克也が誕生したというのだ。

 「中国は北京から」とタイトルの第二便では、「日本プロ野球史のなかの今里 純」を詳細に説明している。今里と野村、王貞治、山内一弘、野球殿堂博物館、吉田義男各氏のかかわりを詳細に述べながら、Y研究者は「今里 純氏に関する重要な論考を書いたのは、私の中学三年の担任だった竹本武志氏です」と記してくれた。彼の研究書の中でわたしが生きる、これが研究であり、歴史なのかと、感心したり喜んだり。

 第三便(最終便)で野村監督と西脇市とのかかわりを展開しているが、野村氏の故郷、丹後地方から播州織の産地・西脇市へかつては「女工」さんたちが働きに来ていたこと、ヤクルトスワローズの監督時代にヘッドコーチとして野村氏の隣に立っていたのは西脇高校から立教大学へ進んだM氏であることなどを論じている。「監督は選手に情をかけすぎます」。Mヘッドが監督にいった言葉が紹介される。

 書くことで現実社会にある変化が生じる。ここが面白い所。研究者Y君は「野村監督への手紙」を西脇市出身のM氏に贈った。「贈りましたよ」と連絡をもらった。そうしたらM元コーチから電話があって「8月8日に新橋でお会いすることになりました」というではないか。ヤクルトスワローズ在籍30年のMさんは地元を代表する人物。Y君は敬意をもって出会っている。二人がコーヒーを飲む写真とともに、「3時間にわたりお話をしました」とメールが入った。

 研究者の一文が、忘れてはいけない歴史を掘り起こし、幾多の人を活かしていく。そう感じられて、古希選手の故障も無駄ではなかったと思う。東京におけるY研究者の活躍を祈っているところである。

シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

輝くシニア発掘~中高年に励ましを~

0コメント

  • 1000 / 1000