「審判ひとすじ六十年」

 昭和の時代に業績を遺された方々は次々と世の第一線を去っている。政治の世界では戦争を知らない世代が、日本を「新しい戦前」に戻すきらいがあるといわれる。スポーツの分野でも、今その人から学んでおかないと大きな損失となる場合が見受けられる。

 歴史から学ぶ。人から学ぶ。そうありたいものだと、わたし個人は思っている。今回は、元セントラルリーグ審判員の福井さんを取り上げた。筆力は劣るがご一読を。

     

 野球は主審がプレイボールを宣告しないと始まらない。「野球とは審判員なくしては成り立たない世界なのである」(落合博満元中日監督)。

だが実際の審判は「孤立無援」。マスコミは際どいプレーについて選手に尋ねはしても、審判の意見を聞く人はいない。審判に夢を持つ子どもたちも少ない。果たして審判の喜びとは何か、その答えを求めてわたしはひとりの審判員を尋ねた。

西宮市甲子園一番町。北風が吹くと甲子園球場の歓声が聞こえる閑静な住宅街に、元プロの審判員が住んでいる。12年前の狭心症手術後も、プロの二、三軍戦や還暦野球、プロOB会野球教室でグラウンドに立ち続ける現役審判がいる。審判歴は60年を数える。

 がっちりとした体格。響き渡る張りのあるダミ声。元NPB(日本プロ野球機構)通算3359試合出場(歴代6位)の記録を持つ、福井 宏さんがその人である。85歳の彼は只の審判員ではない。元セ・リーグ審判部副部長として、日本シリーズ10回、オールスター出場5回を誇っている。衣笠選手(元広島)の連続試合世界記録の達成や、江川卓(元巨人)のデビュー戦、桑田真澄(元巨人)の初勝利でも球審を務めた。昭和48年8月30日、江夏豊(当時阪神)が延長戦でサヨナラ本塁打とノーヒットノーラン(参考記録)を達成したときの球審も福井さんだった。

台湾と独立リーグでの試合数を併せると通算3830試合となり、岡田 功さんの持つプロ野球最多出場記録3902まであと72試合と迫る。彼は審判ひとすじの熱血漢である。

落合博満選手(当時)はそんな福井さんのことを「セ・リーグで最も印象に残る、威厳ある審判員だった」と語っている。

 福井さんは昭和13年4月、伊万里焼で有名な佐賀県伊万里市で生まれた。伊万里商高(捕手)では甲子園出場はかなわず、昭和32年佐世保市の親和銀行に就職。その年、銀行の九州大会で決勝に進出したのだが、そこで後の人生を決定づける悔しいプレーに遭遇した。

 勝てば東京だ。「そりゃ関門海峡を渡りたかったよぉ。海峡を渡るのは九州人の夢だったからね」とつぶやいた。決勝戦。1点リードで迎えた最終回、一死満塁。相手打者は投ゴロ。本塁併殺でゲームセットの場面だったが、捕手・福井の送球が打者走者の肩に当たってボールは転々、痛恨の逆転負けを喫した。打者走者が3フィートラインの内側を走ったからルール上はアウトなのだが、審判は見ていず、判定が覆ることはなかった。このときに彼の人生が動いた。      

「オレは絶対審判になってやる」。

銀行の昼休みにルールブックを懸命に勉強すること3年、彼に思いがけぬチャンスが巡ってきた。セ・リーグが「第一期審判員公募テスト」を実施するという。初めてプロ野球経験者以外に門戸が開かれるのだ。それは昭和37年1月末のことだった。福井 宏24歳。

若い夢が疼いた。安定した銀行員生活を捨て背水の陣で臨む審判採用試験。彼は

「旅費も宿泊費もすべて自弁の就職旅行で、初めて関門トンネルをくぐり、初めて甲子園の土を踏んだ」(赤瀬川 隼)。一週間のテストでは大声を出し、走り、懸命に取り組んだ。32名中2名に入るのは至難の業とあきらめていたら、円城寺満審判部長に呼ばれた。「君の目は輝いていた。でっかい声が出ていた。技術はあとからついてくる」。特別枠での合格は福井さんの真摯さが認められた結果である。

 彼は努力を重ねた。球審前日は外出を控えて食事、睡眠に気をつかった。水分を控え、テレビは3メートル離れて直視し、本は暗い場所では読まなかった。酒は口にしない。

 両投手の約300球を2~3日間は暗記できたという彼は、あるとき「ボールが止まって見える」体験をした。研究者によると「緊張や集中力が高まり感情的な覚醒が起きるとボールが止まって見える」ことが報告されている(千葉大・一川誠教授グループ)。

 直木賞作家・赤瀬川隼は福井さんを取材して「影のプレーヤー」という短編を書いている(文春文庫「捕手はまだか」所収)。彼は文学者の想像力を刺激する審判に成長していた。平成3年には「福井宏君の3000試合達成を祝う会」が多数の関係者出席のもと、迎賓館で盛大に催された。伊万里市出身の若者は華々しいキャリアを重ねていった。

 V9巨人のエースだった堀内恒夫投手は自信満々の外角速球を「ボール」と判定され思わず叫んだ。「どこ見てんだよ!」。球審は平然として「1ミリ外れていました」と応えた。堀内投手は「福井さんとの駆け引きはたまらなく面白かった」と述懐している。彼は現在、AIの審判導入に反対の論陣を張っている。

 福井さんは最後までアウトサイド・プロテクターにこだわったことでも知られる。生ゴムに空気を入れた亀甲型のプロテクターは「安全性が高く、正確な判定ができる」と主張した。日本球界では昭和60年前後から、見栄えが良い、動きやすい、との理由でインサイド・プロテクターの導入が始まっていた。「インサイドは一球ごとに立ち位置を変え、無意識に球をよけながら判定している。それではどうしても狂いが出る」。九州男児の誇りを持つ彼は、最後まで自説を曲げなかった。

 「福井さん、これが今の流行なんだよ」。リーグ事務局から呼び出された福井は、定年まで4年を残し「技術指導員」としての台湾行きを告げられた。事実上の解雇通告だった。平成7年春、彼はひとり台湾へ向かった。 

 「ぼくらの職業は誰にも褒めてもらえない。つつがなく試合が終わってホッとする、あの気持ちよさは他の人にはわからない」。審判の心をもって、彼はリーグ決定を甘んじて受諾したのだった。

 50歳からテニスを始め、70歳でマスターズ陸上100mを14秒27で走った福井さんは、85歳の今も「下手な審判を見るとオレが落ち込むから」と、各団体で後進を育てながら、古希野球チーム「兵庫シルバースター」の選手として活躍している。背番号は審判時代の袖番号と同じ24。

甲子園球場の歓声が聞こえる憧れの地に自宅を構え、その「ホーム」で三人の子どもを育てた夫人が昨年の11月、病に倒れた。「オレ、3カ月ほど眠れなかったよ」と、福井さんがいった。そして「オレも過去の人なのかな」とつぶやいた。

 「あなたはまだ堂々たる現役です。老いや死を見つめながら、健康のため、後進のためにオレはもっと生きるぞと、グラウンドに飛び出す福井さんから、僕らはもっと学びたい。組織の枠を超えて教えてもらいたい。あなたは兵庫の宝です」。今度会ったら、こんなわたしの想いを伝えたいと思っている。 

シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

輝くシニア発掘~中高年に励ましを~

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