順大47年卒同期会in島根
ウクライナへの侵略戦争に続き、今度は中東で紛争が起きた。今朝のニュースでは、イスラエル軍によるガザ地区病院への爆撃で「500人死亡」と報じられた。社会の動きに疎い娘ですらこういった。「こちら(ポートランド・オレゴン州)ではイスラエル寄りの報道が目立つわ。子どもたちがかわいそうや」と。何やら世界中がよくない方向へ向かっている感じがする昨今だが、それらを念頭に置きながら、平和な日々をかみしめたい。
西脇南中学校時代の教え子3人から「飲み会」の誘いを受けた。内二人は夫婦(ともに再婚と聞く)。43年ぶりに顔を合わせる。個性あふれる3人は優等生ではなく「やんちゃ」な部類に入る卒業生だから、初の誘いは自分が教師だったことを思い出させて懐かしい。わたしを慕ってくれる?卒業生がいるとは、正直「うれしいではないか」と思う。
右脚もほぼ元の状態に戻りつつある。投球には支障がないほどに。古希野球公式戦が残り3試合。ここで連勝して通算11勝1分けでシーズンを締めくくり、東西地区の1位によるチャンピオン決定戦でも勝ってオフを迎えるのが残されたシーズンの目標である。そうすれば来年度の全国大会出場権が確保され、三田プリンスにおけるわたしのラストイヤー(おそらくは)を飾ることが出来る。
さらに面白い流れがあって、西脇市で出版会社「(株)ヘソノオ・パブリッシング」を創設されたKさんから企画書が送られてきた。「ベースボールと野球を繋いだ男」故・今里 純先生の評伝を書いてください」と。もちろんKさんとわたしの、また大学院教授であるご子息との共同作業になる。ヨーロッパでサッカーやラグビーを観戦したKさんは文化活動やスポーツによるまちづくりに憧憬が深い。二人は意気投合、「東京へも、ニューヨーク州のクーパースタウン(米野球殿堂博物館)へも行きたいですね」と構想が広がってワクワクしている。やっと共鳴できる人物があらわれた。いい流れに若い気持ちが広がっている。
愉しい気分のさなか、わたしは自家用車(スズキのソリオ)で松江市へ向かった。10月7日(金)、鳥取の伯耆大山を右に見て米子道へ。宍道湖SAで休憩、腰を下ろしてしばし宍道湖を眺める。「のんびりした光景だなあ」。やがて景色は中海から宍道湖の中心付近を経て「出雲縁結び空港」へ。東京、山梨、埼玉~やってくる3人を迎えるのがわたしの役目だ。1時間遅れのJALが羽田から到着。「東洋大学様」や「創価大学様」の名札を持つ人も到着ゲートに居る。2日後の「出雲大学駅伝」の関係者だろう。
4年ぶりに会った。元順大陸上部中距離ブロックの選手たち。「同じ釜の飯を食った」仲間。うれしい再会。「松江ニューアーバンホテル」で荷物を解いて入浴。着替えた4人は宍道湖の夕日を右に見て駅前の「料亭」へ向かう。われわれの全日程を仕切るA君が地元の名物料理をぜひ味わわせたいと、わたしたちを12,000円の店へ誘ったのだ(予算オーバーや)。翌日は地元の同期会世話役F君(僧侶でもある)の案内で松江城とお城巡りの船に乗る。「ぐるっと松江 堀川めぐり」。それからお城へ登り、小泉八雲旧居を左に見て「松平不昧公ゆかりの茶室 名々庵」で抹茶をいただく。やはり住職の案内は違う。
翌8日(土)夜には全国から(青森~九州)「順大愛」深き40数名が集まって宴会に。コロナ禍で延期に次ぐ延期でやっと実現した同期会、箱根駅伝で活躍したK(旧姓M)とF両君のリーダーシップがあるから47年度卒の仲間が集まれる。水泳で金メダリストを育てたS君も若い顔を見せて(今も谷津遊園(千葉)のプールで指導している)、「パリ五輪まで頑張ります」と恥ずかし気に決意を表明した。 この日は大津市(滋賀県)と貝塚市(大阪府)からMヤンとTちゃんが合流している。二人は旅程をともにする仲間だ。
9日は出雲駅伝の応援を他に任せて、世話人A博士はわれわれ6人を隠岐の島へ案内してくれた。境港では水木しげるロードを散策し、島では牛の角突き大会(地域の秋祭り)を見て、多くの神社を見学して、ホテルで美味な刺身をいただいて、昔の寮生活に戻ったかのように畳で3人ずつ並んで寝た。計4泊5日の共同生活。最終日は庭の美しい足立美術館から玉造温泉へ。最後の夜は加賀(石川)のK夫婦、東京のA君(彼はわたしと同郷)、島根県大田市の住職F君とわれわれ6人で愉しい時間を共有できた。
最後の日程は「出雲大社」。神社に詣でて、1時間待ちの「荒木蕎麦」へ。6人と地元F君はこの時にとっておいた「出雲そば」を別れとした。出雲大社のパーキング横の芝生で輪になった7人はさいごのあいさつ。F君のお世話に礼を述べ、大津市経由で貝塚へ帰るTちゃんのワゴン車をさりげなく見送る。胸に熱い感情が湧く。F住職は大田市へ帰り忙しいお寺の仕事に戻る。手を振った。わたしは関東組3人を乗せ、再び出雲空港へ向かった。
空港でA君は「東京へ来るときは連絡してよ」とほほ笑んだ。膵臓を痛めて治療中のS君は黙って目であいさつを交わし、互いを知り尽くすH教授はさいごまでわたしを見つめていた。来年は75歳だ、同期生の会は来年「青森」で実施すると決めているが、同じメンバーが元気に出会えるとは限らない。延期中のこの4年間に3人の同期生が亡くなっている。
青森の件は、今は妻には内緒にしている。しかし行きたいと思う気持ちは強い。それにしてもと、考える。順大時代の同期の会はなぜこんなにわたしを惹きつけるのだろう。大学とは、苦しんだ陸上部とは、東京とは、若かったあの時代とは、どういうものだったのだろうか。「神在月」出雲のゆったりとした悠久の地が、旅に彩を添えたことだけは確かだった。
0コメント