世界を視る・・中国、日本、MLB

 西脇中学校のOBが北京大学大学院で研究を続けている。東北大を経て北京へ渡った彼は旧満州鉄道に関する研究を継続しつつ、北京日本人学術交流会を主宰し、会は335回を重ねている。そのY君から中国野球の動画が送られてきた。題して「知られざる中国野球」。

 2008年の北京五輪以後野球が正式種目を外れ、2002年にスタートした中国プロ野球リーグは2012,13年には中断を余儀なくされた。動画は復活した2015年の開幕戦から始まる。1部リーグ6チーム、2部チームは4チーム。2部に「人民解放軍」と聞くと微笑ましい。

 選手の月給は数万円。日本との差は大きいが、その人気には認識を新たにさせられた。観衆は2,000人で、中国全土の野球ファンは3,000万人を超えるといわれる。野球チームは北京に500チーム、全国では2,000チーム余。人気に目を付けた企業が2億円(年間)の投資を決めるなど、今後に注目が集まっている。

 新鮮な驚きは100年前、抗日戦争中の清朝末期に米軍人チームと野球の試合をしている歴史だ。日本に野球が伝わったのは1873(明治6年)お雇い外国人だったウィルソンが開成学園(東大の前身)で生徒たちに伝えたとされる。アメリカ近代野球の確立は1901年だから、その息吹は中国にも伝わっていたのだ。


 *ここで詳細な歴史的事実が届けられた。北京で研究者生活を続けるY君からの報告。清朝末期は1890年代~1910年頃で、抗日戦争は1937~45年頃だから、清朝末期と抗日戦争は別の時代であること。そして抗日戦争の蒋介石時代はアメリカと同盟国だったこと。1949年に毛沢東が実権を握ってからは旧「満州」の大連野球場が取り壊されるなど、野球人気が衰退していったという。したがって、清朝末期の米軍との野球試合はおよそ120年ほど前になる。


 「ヴァイスプレジデント アジア・パシフィック」の肩書を持つMLBジャパンのジム・スモール氏(何度かお顔を拝見した)は5日配信のSportsnavi(永塚著)で、中国での普及活動として、まず野球を始めてもらってプレーの経験を増やす、学校で教材に取り入れてもらう、20都市を廻る(MLBロードショー)など草の根運動を展開していると語った。

 今後、中国、韓国、台湾などアジア諸国の野球はさらに成長を遂げるだろう。日本のプロ野球が現状維持しかできずに改革を忘れたなら、ファンはいつか離れる。その一つが監督問題だ。金本(阪神)、高橋(巨人)がクビになった。またしても同じことが繰り返される。

 「優秀な選手イコール優秀な指導者」ではない。1977年から20年間ロサンゼルス・ドジャースの監督を務めたトミー・ラソーダの現役時代は0勝4敗(3年間のみ)。彼は1A(シングルA),2A(ダブルA),3A(トリプルA)を経てメジャーの監督に昇格した。

 わたしは2004年、2006年にマイナーの指導者と生活をともにした。ベロビーチのドジャータウンの早朝、トレーニング・ルームで鍛える彼らの姿を見た。彼らの夢は選手同様、メジャーへの昇格だ。一人がわたしにいった。「(かつて)日本の選手が煙草を吸っていた。なぜだ?」。自分を厳しく律して指導者の道を歩んでいる姿は感動的だった。

 西本幸雄、上田利治など、日本のプロ野球界でもたたき上げの指導者は存在した。ファンを呼ぶために名選手を引退後すぐに監督に据えるなどばかげたことはやめてもらいたい。つまらない野球を見せられるファンこそ犠牲者といえる。日本野球界は指導者を育てるシステムを早急に確立すべきなのだ。広岡達朗など、優れた講師陣は存在するのだから。

 北京からY君の情報が届く。リーグ優勝決定戦のドジャースのダグアウトにポッサム中島さん(トレーナー)の姿が写る。あさっての第3戦ではスタンド最前列で友人のブラッド・セトさんが夫人と並んで観戦するだろう。昨日のヤフオク・ドームのVIPルームからは親しいS君の写真が届いた。

 皆、わたしに語りかけるようだ。「視野を広く!世界に目を向けよ」とばかりに。有難い環境に頭を下げつつ、このブログを書く。北京のY君には、彼の故郷の青空とたわわな柿の実を贈りたい。

シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

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