若くして逝ったKさんに献杯

 最近70歳過ぎの著名人が相次いで亡くなっている。スポーツ界では元横綱・輪島氏、さかのぼっては衣笠、星野さん。来シーズンに古希野球デビューを控えるわたしの歳が、どうやらそういう年代に差し掛かっているということなのか。

 学生時代、トラックを疾走する超一流選手は今もわたしの脳裏に鮮やかな姿を記している。日本学生対抗陸上競技大会(インカレ)4連覇のM君(現姓Kさん)、オリンピック選手となったKさん(一つ先輩)、そして1,500mのチャンピオンU君。著名人は遠い存在だが、若い日々に生活をともにした人が逝ってしまうとさみしい。感慨深いものがある。元オリンピック選手Kさんの訃報が届いた。本年9月上旬に亡くなっていたという。

 大学卒業後郷里で中学校の体育教師となったとき、生徒の指導面で三人の姿は有形無形の財産となってわたしの実践を後押ししてくれた。学生時代の3年間、順大のグラウンドで苦闘の毎日を送ったとって、彼らは自分の中のヒーローだったのだ。「Kさんが亡くなった」。昨夜は近所の焼き鳥屋でKさんに献杯する自分がいた。

 「Kさん、亡くなったって?」。思わず石川県に住むインカレ四連覇君に電話をした。

 「そうなんだよ、九州へ行くと一緒に飲んだ、3度くらいかな」

 K君によると「実業団生活(クラレ、大昭和製紙)を辞めて郷里へ帰っていたんだよ」とのこと。ご両親(お父さんはすでに他界)、近所には弟さん、妹さんもいて、ゆっくりと第二、第三の人生を過ごされていたのだろうか。順天堂大学陸上競技部長距離ブロックのマネージャーを務めていたTちゃんは、「あの人はいい人やったでぇ、ワシがさあ、計時しかけたときKさんの記録の伸びはすごかったよ」と関西弁で懐かしんだ。

 Kさんの活躍の跡。

 ・1968(昭和43)年 大学1年・・・第44回箱根駅伝 9区12位

 ・1969(昭和44)年 大学2年・・・第45回箱根駅伝 1区  2位

 ・1970(昭和45)年 大学3年・・・第46回箱根駅伝    8区 1位。第39回日本学生対抗陸上競技大会(インカレ)3000m障害優勝。

 ・1971(昭和46)年 大学4年・・・第47回箱根駅伝 2区3位。第55回日本選手権3000m障害優勝(以後計6連覇)

 ・1972(昭和47)年 第20回ミュンヘン・オリンピック3000m障害9位。

 ・1976(昭和51)年 第21回モントリオール・オリンピック出場。

 Kさんは陸上競技のオールド・ファンなら知らない人はいないほどの名選手だった。シャイな人柄で、皆の前で歌う歌は「巨人の星」のみ、音程は若干はずれていた。178cm近い長身で苦しそうに首を傾けながら、しかし腕の振りはダイナミックなKさんのランニングフォームは今でもそっくり真似することが可能だ。

 箱根駅伝の試走に付き合って平塚で荷物を受け取ると、「ありがとう」とつぶやいてKさんはわたしの視界から消えていった。47年前のシーンがなぜか脳裏に鮮やかだ。わたしはきっと、競技成績を鼻にかけない実直なKさんの人柄に惹かれていたのだろう。

 ともにミュンヘンで日の丸を背負った順大の先輩、走り高跳びのTさんも本年亡くなられたという。長身でイケメン(今でいうところの)で、ベリーロール最後のオリンピック選手だったTさんは2m05センチを跳んで決勝に残った。同じグラウンドで練習をした先輩たちが次々に亡くなっていく。そんな時代になった。

 Kさんの想い出を噛みしめていると、大学時代の3年間が自分の中で違った輝きを見せてきた。Kさん、ありがとう、そうつぶやいて順大の習志野校舎を想い出すのだった。

 

 

 

シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

輝くシニア発掘~中高年に励ましを~

0コメント

  • 1000 / 1000