日系人プレーヤー死す 新聞の片隅に
この土日は仕事(障害福祉の事業所運営)から離れて「作家的生活」をやってみようと思い、そのとおりにズボラをかましているが、なぜか頭脳が冴えているようだ。といっても認知症にはまだ縁がない程度の冴えではあるが、きっと北京の研究者Y君から受けた刺激がなせる業に違いない。
そんな日曜日、12月16日の朝、神戸新聞の片隅にこんな記事を見つけた。そっくり写し取る。「銭村 健三氏(ぜにむらけんぞう=元プロ野球広島選手)関係者によると、13日に米カリフォルニア州の自宅で死去。91歳。カリフォルニア州フレズノ出身。53年に弟の健四(けんし)氏とともに広島に初の米国籍選手として入団。1シーズンで帰国したが、兄弟で機動力野球を広めた。父は広島県出身で、日系人野球の父と呼ばれた健一郎(けんいちろう)氏」。
日系人の不遇な歴史を想うのか、サンタモニカ(カリフォルニア州)とハワイ(マウイ島)に日系三世の友人を持つことに起因するのかわからぬが、この記事に惹かれた。
映画にもなった「バンクーバー朝日軍 伝説の日系人野球チーム」(テッド・Y・フルモト著)が文芸社から発刊されたのは2008年の5月だった。移民の過酷な生活と露骨な人種差別の中で、野球を通じて日本人としてのアイデンティティを求めていく姿に感動し、以後はロサンゼルスの日系人博物館を見学するなど、日系人野球へのわたしの興味、関心は高まって行った。
そして、刀水書房から「日系人戦時収容所のベースボール ハーブ栗間の輝いた日」(永田陽一著)が刊行されたのは2018年(本年)3月のことだった。本棚から取り出した。確かに銭村選手に関する記録が在ったはず、そう思った。あった。銭村親子は日系人野球の歴史そのものとして記録されている。
日米開戦後、フランクリン・D・ルーズベルトによって大統領令9066号が発せられ、アメリカ西海岸の日系人は収容所へ送られた。本によれば、ハーブ栗間たちがカリフォルニアを出発させられたのは1942年5月29日だった。一行は260キロ走ってブドウの産地、フレズノへ到着。環境の激変に戸惑っている彼らに向かって叫んだ男がいる。「ベースボールをやろうや!」と。「フレズノ体育会」は中部カリフォルニアの強豪野球チームであり、その第一人者がケン銭村健一郎だった。
銭村の音頭で仮収容所内で野球場づくりが始まり、5月6日のオープニング・ゲームには5120人の観衆が集まったという。1900年に広島で生まれた銭村健一郎は両親の移民に伴って幼少期をハワイ(ホノルル)で過ごす。身長150cm。ハワイのチーム「朝日」の遊撃手として活躍していたが、どうしても本場で野球がやりたくてフレズノへ移住した熱血漢だった。
フレズノの仮収容所では12チームが野球を愉しんだ。収容所が閉鎖される直前の1942年10月7日には1,500人の観衆の下、オールスター戦が行われ、全員のサインボールがケン銭村に贈られた。文字どおり、彼は「日系人野球の父」として感謝されたらしい。
戦後、ケンの二人の息子、ハワード健三とハービー健四は広島カープでプレーした。そういう歴史を持った人物、銭村健三氏の死亡記事が今朝の神戸新聞の片隅に掲載された。91歳といえば1928年、昭和3年の生れである。わたしとの差は21歳、わずかではないか。このわずかの差によって互いの人生は全く異なっている。
いつの日にかハワイの日系人野球も見てみたい。再度じっくりとロサンゼルスの日系人博物館へ行き、日本語のわかる学芸員の話を聞きたい。日本では町対抗少年野球と草野球の経験しかないわたしだから、日系人への関心が高くなる。
銭村さんの激動の人生に 合掌。
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