文化保存~民間有志と行政の狭間で~
「5月に帰るわ」、ロサンゼルスに住む娘から連絡があった。3歳になった長女と9カ月を迎える二人の娘を連れての帰国である。名古屋の孫を含めて連休後のひととき、我が家は賑やかになる、と思ったら、大正生まれの母が入院先で昏睡状態に近づいた。
歳に不足はない。1921(大正10)年生まれ、7月で98歳になる。だが、田舎しか知らず、教養とは無縁で働きづめだった母親の寝顔を見ていると、胸が締めつけられてなかなか辛い。新しい生命が育っていくと、古い命が消えていくのか。
そのような世の移ろいだけに、忘れてはならない、消し去ってはいけない出来事もあるはずだ。保存すべき文化遺産。地域が大切にしたい遺産があるはずだ。それを想わす手紙が届いた。
北京大学大学院の修士で、2008年に「北京日本人学術交流会」を立ち上げた山口直樹君が、北京で発刊した雑誌を贈ってくれた。2019年1月「人文社会学論業」がそれである。手紙が同封してある。「こんにちは。いま東京です。掘りだしものを見つけたので、送っておきます」。そこには雑誌「女学生の友」1964(昭和39)年11月号の記事がコピーされていた。
特別手記ー『愛と死を見つめて』生きたおねえちゃんー。大島かよ子。
文章はこんな書き出しで始まる。「おねえちゃんーーー。こう呼んでも、もう、おねえちゃんのやさしい顔を見ることも、明るい声をきくこともできなくなって、一年がめぐり過ぎてしまいました。あれから一年・・・・・」
おねえちゃん、とは、1964年に吉永小百合の主演で映画化され、日本中を感動の渦に巻き込んだ「愛と死を見つめて」の大島みち子さんである。かよ子さんは小学校の同学年だったから、初めて目にする彼女の素直な文章に感慨を覚えた。懐かしい。少数者しか読まないわたしのブログでも、勝手な感想を描いて、「遺族の気持ちも知らないで」と、彼女に叱られるかもしれないが、「愛と死を見つめて」の感動を我が人生と重ねるファンは今もなお全国に存在する。
1964年10月1日、わたしは中学校3年生、西脇市の西脇映画劇場(わたしたちは略して西映と呼んだ)で、「愛と死を見つめて」が上映されている。かよ子さんの文章で思い出した。わたしの若い日々と「愛と死を見つめて」はしっかりと重なっている。だから、もちろん、遺族の遺志を尊重しながらのことだが、行政の力で、ささやかな、清潔な、大島みち子さんに関する文化保存活動はできないものかと、残念に思っている。
わたしに吉永小百合さんの素顔の写真をプレゼントしてくれたのが、大島かよ子さん。山口直樹君は手紙に書いた。「竹本武志という人は、かよ子という女性に縁がありますね」と。わたしの女房の名も「かよ子」。おもしろい。
去る3月23~25の三日間、西脇市、多可町において、東北、関東から遠来のチームを迎え、計19チームでもって学童の全国大会を開催したのは既報のとおりである。主催者である仙台市民球団企業組合のS代表からは第3回大会も「ぜひ西脇市で開催したい」と申し入れがあった。大会の狙いは三つ。「子どもの健全育成、野球人口の底辺拡大、そして町おこし」。
被災地の子どもたちとの交流、経済的効果、しかしながら日程調整や審判の確保など、地元有志の中でも異論があって、どうやら来年度の実施は不可能に近くなった。大島みち子さんに関する保存活動と同じく、学童全国大会も行政のバックアップなしでは実現しない。
自分の中では「そろそろ地域のスポーツ活動から隠退しよう」の気持ちが広がっている。行政の支援なくては、いつか有志がひとりまた一人、地域の活動から去っていくのは必至である。
「愛と死を見つめて」と「学童全国大会」他さまざま。行政はどうあれ、これらに関ってきたわたしは十分満足し、その活動に誇りを持って「引退」しようと思う。これからは障害福祉事業所「ドリームボール」の後継者づくりと、古希野球にのみ情熱をかけるつもりだ。人生のスリム化、スリム化。
それにしても、東京オリンピック(1964年)の熱冷めやらず、また高校入試を控えた多忙な時期に、大島かよ子さん、素直で純な文章を書いていたのだ。大切に保存させていただこう。
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