幻の「母に捧げる完封勝利」

 1勝1敗の成績で迎えた古希野球第3戦は、4月22日(月)宝塚スポーツセンターで行われた。この試合に向けての調整は難しかった。睡眠不足と多忙の中で最低限のランニング、筋トレ、ネットピッチングに取り組んだのだが、体の重さはいかんともしがたい。

 懸念は的中し、初回にH(ヒット)で4点取られ、2イニングにはE(エラー)で4点追加されて万事休す。その後も追加点をゆるし、屈辱のコールド負けを喫した。投手としての責任を感じる一戦だったが、心の中は平穏だったのだ。「亡き母に捧げる勝利」、よくスポーツ紙に躍る活字だが、わたしには縁がなかったようだ。

 入院中の母親の様態が深刻化したのは16日からのこと。呼吸が荒くなり、いよいよかと心の準備を余儀なくされた。17日(水)の夜中に看護師さんから電話で呼び出され、死を迎える母親の横で朝を迎えた。毛布を忘れ、寒気が体に浸みた夜だった。1時51分、額を撫でながら「生んでくれてありがとう」と語りかける。この夜は血圧が80~92に上昇した。「耳は聞こえているわ。今までずっと80台だったのに」。担当のヴェテラン看護師さんの言葉に安心して朝方に病室を出た。

 18日(木)は呼吸が一層荒くなった。ときおり目を開けて一点を見つめるのだが、80歳から認知症を患う母に何が見えているのかわたしには想像できなかった。ときおり呼吸の停止が見られ、徐々に細くなった息が午後11時18分に停止した。長男一人に看取られての旅立ちだった。医師の死亡診断書は11時38分となっているが、息子の中の母の死は11時18分である。

 大正10年7月28日生まれ。満97歳の人生だった。「令和」を待たずに逝ったのは自分の人生は、大正、昭和で充分と思ったのではないか。多可郡内の老人施設入居の為大好きな自宅を出たのは3年前だったから、通夜と葬儀は自宅で執り行おうと決めた。家族だけのひそやかな、しかし温かい見送り。6年前に父を、そして今、母親を亡くした。オヤジが亡くなっても母はいた。どこかに安心する気持ちがあったのだが、二人とも失って、わたしの人生で初めて虚脱感が襲ったのは確かである。「男は母親を亡くして初めて一人前」という。「母なる大地」ともいわれる。通夜を待つ棺の前で、わたしは「かあさんの歌」(歌・倍賞千恵子)を一人聞いていた。

 ♪かあさんが 夜なべをして 手袋編んでくれた♪ 田んぼで働くのが好きだったから手袋は編んでくれたことはないが、働き者だった。小学生のころドッジボールの対抗試合で活躍したことが唯一の自慢だったから、教育は受けていない。「みよ子さんが男だったらなあ」と町内の女性たちは常々言っていたそうだ。幼くして父親を亡くした母子家庭の最年長は負けん気だけで生きたように気が強く、しかし辛い仕事を率先して引き受ける正義感もあった。

 わたしが成人するまで我が家は茅葺の俗にいう「藁屋根」の田舎屋だった。土間に入ると夏でもひんやりと涼しかった。右手に五右衛門風呂があり、その横には牛小屋があった。夕方になると牛の食糧にレンゲの花を刈り取っては小川で牛のふんを取ったものだ。そこには「かあさんの歌」の世界が広がっていた。

 ♪かあさんは麻糸紡ぐ 一日紡ぐ お父は土間で 藁打ち仕事♪ 雨の日、オヤジは筵に座り、本当に藁を打っていた。小作農もしていた。わたしはその田んぼ(小作をしている)で田植えをする日がイヤだった。貧しいはずなのだが、米の収穫が済むと城崎温泉で何日も湯治をし、市の商店街で洋服のまとめ買いができた。夏の宵などは我が家の庭の床几に近所の人たちがやってきて団扇をパタパタ、庶民にとってはいい時代だったのかもしれない。

 1917(大正6)にロシア革命が起こり、翌年に日本はシベリア出兵、米騒動と騒がしい世相となり、母親が生まれた1921(大正10)には、安田財閥の安田善次郎と原敬首相が暗殺された。母10歳で満州事変(1926年)、14歳のとき日本が国際連盟を脱退し(1935年)日中戦争に突入したのが16歳(1937年)。竹本みよ子は若い日には戦争を経験し、戦後は田んぼや染色工場の労働で家族を守った。

 旅行することもなく、村から村へ嫁いだ女は考えが古く、弟が新潟の社会人野球へ行きたいといったときは猛反対をしている。そんな両親が1967年の春、わたしの大学入寮日に千葉県習志野市まで見送りに来た。ふたりはどのような気持ちで息子と離れたのだろう。♪お父は土間で 藁打ち仕事 おまえもがんばれよ ♪ おまえもがんばれよ、歌詞がここまで来ると涙が止まらなくなった。

 感傷を打ち消すようにわたしはランニングに出た。試合が控えている。母も父もおそらく好きだったろう堤防を一人走った。この景色をもう一度見たかっただろうなと、想像しながら。

 我が家の歴史。竹本家から他家に嫁いだ「てる」は戦争で二人の息子を亡くした。兄武治は昭和20年6月15日にルソン島で、弟圓司は19年の11月4日にモロタイ島で戦死し、「てる」は兄の家へ帰った。親戚から、みよ子を養女にし、婿を取った。わたしの両親である。二人の戦死によってわたしが誕生したことになる。だからわたしが武志、弟が司と命名された。

 仏間には、靖国神社を背景にした兄弟の顔写真が在る。家族がロサンゼルスに住むことも、もうすぐ二人の孫が帰ってくることも写真の主は知りえない。まさか敵国だったアメリカに子孫が住んでいるとは。「てる」ばあさんと、認知症の母親は、Kaia & Miaの姉妹が元気に育っていることも、名古屋に孫がいることも知らない。家族の歴史はこうやって変遷を繰り返す。

 宝塚スポーツセンターでシャワーを浴びていると7~8年前に還暦野球に参加したころを思い出した。投げても投げてもエラーが多く、なかなか勝てない状況下で、わたしは投げるのが嫌になっていた。苦痛になった。しかし年を経るごとに三田プリンスのメンバーが充実し、4位、3位、2位と成績は上昇していった。今は2年連続優勝のあとも常に上位に君臨するチームとなった。

 シーズンは始まったばかりだ。リベンジのチャンスは今から、そう考える習慣がついた。障害福祉事業所で心の病を抱える若者たちと過ごしていて教えられたことでもあるが、ながいスパーンで物事をとらえることの大切さ、古希野球にはこの我慢強さが求められる。

 さあ、次の勝利を目指して練習を始めるか。70歳を目前に、まだ野球に熱中する息子を両親はどんな思いで見ているのだろうか。天国で、きっと言っているだろう。♪ おまえも がんばれよ ♪ と。

 順天堂大学習志野キャンパスの校門は左右の旧い石柱だった。わたしが振り返るとその脇に寂しそうな両親が立っていた。まだ若かった両親の50年前の姿である。その両親が逝き、息子が古希を迎える。       

 

 



シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

輝くシニア発掘~中高年に励ましを~

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